2009年1月12日月曜日


 【状況論的短言集】(画像はスピノザ)



* 虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ意志的、継続的な対自我暴力である。

 最悪の虐めは、相手の自我の「否定的自己像」に襲いかかり、物語の修復の条件を砕いてしまうことである。その心理的な甚振(いたぶ)りは、対象自我の時間の殺害をもって止めとする。時間の殺害の中に、虐めの犯罪性があると言っていい。

 身体を少々壊されても、時間を守れると確信する者だけが闘争を始動する。確信できなくても、時間を守りたかったら逃げないことだ。覚悟に向かうイメージだけが貴方を救うのだ。逃げないことが闘うことだ。決定的状況での決定的なイメージラインが、生涯、貴方を救うのだ。



* 単に暴力が怖いのではない。いつ、どんなときに、どんな形で走り出すか分らないから、それは怖いのだ。「法則性なき暴力」が最悪の暴力である。それを断ち切るためには、そこに形成されている権力関係を破壊せねばならない。そのとき、貴方はテロリストになる。相手の理不尽な暴行権を壊すテロリストになる。人はどれ程覚悟してそのようなテロリストになり得るのか。

 深くて澱んだ泥濘の中を、果たして貴方は、爆弾ベストをその肉塊に貼り付けたまま、凛として突き抜けられるのか。



* 一度作り出された空気は、その空気を作った人為的な環境が変わらなければ、それが特定的なリスクを再生産する空間では、永劫に続くような何ものかになっている。常に確信的な視線の背景には、それが帰属する集団の価値観を体現する空気があるのだ。その空気が個人の内部に留まらないで「状況」を作り出し、そこで行為として表現されるとき、そこに差別が生まれるのである。

 

* 差別とは、単に感情や意思のことではない。

 人間は必ず内と外を分ける境界を作り、異なった価値観を排除する意思によって生きていく。その意思が過剰になるとき、それを偏見と言う。相手の異なった価値観を理性的に認めれば、人は恐らく、他者と上手に繋がっていくことができるだろう。然るに、過剰な感情や価値観が行為として表現されてしまえば、それらは本質的に差別行為となっていく。

 だから、身体化された差別は全て表現的行為なのである。視線もまた、しばしば最も性質(たち)の悪い差別となる。私たちは迂闊(うかつ)にも、視線の背景を覆う空気を自ら作りかねないし、或いは、そんな空気に囲繞される不幸と無縁であり続けるという保障もないのだ。



* 価値は表層にあり―― 表層を嗅ぎ分けるアンテナだけが益々シャープになって、ステージに溢れた熱気が、文明の不滅なる神話にほんの束の間、遊ばれている。



* 表層に滲み出てくることなく、滲み出させる能力の欠けたるものは、そこにどれほどのスキルの結晶がみられても、今、それは何ものにもなり得ない。奥深く沈潜し、価値が価値であるところの深みを彷徨する時間を楽しむには、我々は多忙過ぎる。動き過ぎる。移ろい過ぎる。ガードが弱過ぎる。沈黙の価値を知らな過ぎるのだ。


 
* 「生命絶対主義」というラジカルな思想の一つの到達点が、延命措置による患者の苦痛の様態であった。一切の殺処分を許容しない、倣岸なイデオロギーの快進撃は、同時に、苦痛に歪む患者の日々の不毛な継続を強いる傲慢さと同居せざるを得なかった。



* 沈黙を失い、省察を失い、恥じらい含みの偽善を失い、内側を固めていくような継続的な感情も見えにくくなってきた。多くのものが白日の下に晒されるから、取るに足らない引き込み線までもが値踏みされ、僅かに放たれた差異に面白いように反応してしまう。終わりが見えない泡立ちの中では、その僅かな差異が、何かいつも決定的な落差を示しているようにならなくなる。



* 陰翳(いんえい)の喪失と、微小な差異への拘り ―― この二つは無縁ではない。

 陰翳の喪失による、フラットでストレートな時代の造形が、薄明で出し入れしていた情念の多くを突き崩し、深々と解毒処理を施して、そこに誰の眼にも見えやすい読解ラインを無秩序に広げていくことで、安易な流れが形成されていく。そこに集合する感情には、個としての時間を開いていくことの辛さが含まれている分だけ差異に敏感になっていて、放たれた差異を埋めようとする意志が、ラインに乗ってもがくようにして流れを捕捉しにかかる。流れの中の差異が取るに足らないものでも、拘りの強さが、そこで差異感性をいつまでも安堵させないのである。



* このような時代の、そのような差異感性の辺りには、縦横にアンテナが張り巡らされていて、そこに集合する情報の雲海から垂れ流されるシャワーをいつも無造作に浴びてしまうから、人々は動かないこと、移ろわないことに我慢し難い感性を育んでいってしまうのである。

 差異を放たれるのを恐れる人々は、差異を放つ快感に必ずしも生きようとしているわけではない。差異を見つけにくい関係の中にも嵌(はま)り難く、そこに気休め程度の差異を仮構して、存在の航跡を確かめていかざるを得ないのである。人は皆、他者とほんの少し違った何者かであろうとしているに違いなのだ。



* 人々を、視覚の氾濫が囲繞(いにょう)する。

 シャワーのようなその情報の洪水に、無秩序で繋がりをもてないサウンドが雪崩れ込んできて、空気をいつも飽きさせなくしているかのようである。異種の空気で生命を繋ぐには立ち上げ切れないし、馴染んだ空気のその無秩序な変容に自我を流して、時代が運んでくれる向うに移ろっていくだけだ。

 一切を照らし出す時代の灯火の安寧に馴れ過ぎて、闇を壊したそのパワーの際限のなさに、人々は無自覚になり過ぎているのかも知れない。視覚の氾濫に終わりが来ないのだ。薄明を梳(と)かして闇を剥いでいく時代の推進力は、いよいよ圧倒的である。



* 照らして、晒(さら)して、拡げて、転がして、塞いで、削ろうとする。その照り返しの継続的な強さが、却って闇を待望させずにはおかないだろう。

 都市の其処彼処(そこかしこ)で闇がゲリラ的に蝟集(いしゅう)し、時代に削られた脆弱な自我が突進力だけを身にまとって、空気を裂き、陽光に散る。陽光が強いから翳そうとし、裂け目を開いて窪地を作り、そこに潜ろうとする。陽光の下では、益々熱射が放たれて、宴が続き、眼光だけが駆け抜ける。そこでは、刺激的なる一撃は、次の一撃までの繋ぎの役割しか持たず、この連鎖の速度が少しずつ増強されて、視覚の氾濫は微妙な差異の彩りの氾濫ともなって、いつまでも終わりの来ないゲームを捨てなくてはならないようである。動くことを止められないからである。



* 一度手に入れた価値より劣るものに下降する感覚の、その心地悪さを必要以上に学習してしまうと、人は上昇のみを目指すゲームを簡単に捨てられなくなる。このゲームは強迫的になり、エンドレスにもなるのである。自己完結感が簡単に手に入り難くなるのだ。「これでゲームオーバーだ」という認知が、次第に鈍ってくるのである。



* 捨てられず、後退できず、終えられないゲームに突き動かされて、落ち着きのない人々は愉楽を上手に消費できず、愉楽の隙間から別のアイテムに誘(いざな)われて、過剰なショッピングを重ねていく。今、自分が手にしているもの以上の価値ある何かが、どこかにある。それを手に入れなければ済まない生理が、そこにある。バスを降ろされたくない不安の澱みが、単にそれを埋めるためだけの補填に走るのだ。



* 快楽は常に、より高いレベルの快楽によって相対化されるから、どうしてもこのゲームはエンドレスになり、欲望のチェーン化は自我を却ってストレスフルにしてしまう。

 未踏の、豊饒な満足感に充ちた快楽との出会いは、それを知らなかったら、それなりに相対的安定の秩序を保持したであろう日常性に、不必要な裂け目を作るばかりか、それがまるで、魅力の乏しいフラットな時間に過ぎないことを、わざわざ自我に認知させ、自らの手で日常性を食い千切っていく秩序破壊の律動は、しばしば激甚であり、革命的ですらあるだろう。



* そのアプローチの様態は様々だが、普通の人間ならその対象への一縷(いちる)の警戒感を捨てることなく近づいて、その甘い蜜の香りがやがて脳の快楽中枢を不断に刺激してしまえば、もうその対象を擯斥(ひんせき)することが困難になるはずだ。そして人は、その対象との絶対的距離をどこかで巧みに無化してしまうだろう。距離を無化させた駆動力 ―― それを私は「快楽の落差」と呼んでいる。



* 自分が今まで味わったことのない種類の快楽と出会ってしまったとき、人はもうメロメロになっている。勿論、快楽の感情は相対的だが、少なくとも、自らが至福と信じたものから離れてまでも、自分が今手に入れた快楽の、殆ど暴力的な被浴が記憶に刻まれてしまったら、人はもうそれ以前の日常世界に戻れなくなってしまうのだ。それが、「快楽の落差」の最も怖いところなのだ。



* 快楽に落差があるから、人は欲望に自分なりの価値付けをして、その感情の稜線を昇りつめていく。「快楽の落差」が大きければ大きいほど、人がもうそれ以前の日常世界に帰れなくなってしまうのは、人の心理的文脈の自然な流れであると言ってもよい。

 厄介なのは、欲望を抑制すべき人間の自我が、そこで手に入れた快楽の被浴を脳の中枢が刺激されることで、既に肥大した欲望の文脈に少しずつ馴化してしまうことだ。

 更にもっと厄介なのは、その馴化の流れにひと通りの物語を張り付けてしまうことである。こうして人は、知らず知らずの内に欲望の無限連鎖の世界に嵌っていき、そしてその速度に容易く順応してしまうのである。この順応性は人間の文明を啓いた起動力になったが、同時に、多くの大切なものを喪失させてきた元凶でもあった。

 これほどまでに人は状況に順応し、その状況が垣間見せた欲望の対象に搦(から)め捕られてしまうのである。
 


* 人々が共同体的なものから脱し、私権の拡大的定着の流れが定まるほどに、「自分を生きること」と、「バスから降りないこと」の背反命題からのゲームの強迫度が増していき、快適であるべきはずの日常性が、少しずつ自在性を崩しがちになるとき、人々はそこに、どのような秩序を保証していくのだろうか。それこそ、最も切実な現代的テーマの一つであると、私は考えている。



* 幸福を手に入れるにも覚悟がいる。幸福が壊れたとき、幸福の大きさが不幸の大きさを決める。不幸の大きさに耐え難かったら、勢いにまかせて幸福のサイズを徒に広げないことだ。

 自我が処理し得る幸福のサイズというものがある。同時に、不幸のサイズというものもある。等身大の幸福を、継続的に確保できる者が最も強い。不幸の突発的なヒットによって崩されかかった物語の修復が、最も速やかに推移する確立が高いからである。

 どうしても壊されたくない幸福に拘泥する者は、その幸福にまとうリスクを、確実に処理し得るサイズの幸福をこそ選ぶはずだからである。幸福の選択に博打はいらないのだ。



* 過剰に演技する者がナルシズムを手放さないでいられる為には、更に過剰な演技を強迫する以外にない。
 演技する程に過剰なナルシズムだけが罰を受ける。自らを強迫して止まないナルシストは、常に起爆管を抱えた特攻戦士のようである。実際の敵は洋上になく、沸々と泡立って鎮まることがない内側にこそ潜んでいる。病者と天使を同時に装うナルシズムの異様な尖りは、声高なる進軍の果てに、死体を累々と積み上げていく。英雄への免疫が顕著に低下した時代の中でこそ、異様な尖りが月光に輝いてしまうのだ。

 ちまちまと、殆ど目立つことのないナルシズムだけが圧倒的に健全なのである。他人にからかわれて、忽ちの内に忘れられてしまうようなナルシズムの滋養をこそ大切にしたい。



* 無自覚なランナーが、無自覚な快走の果てに、無自覚なウィナーになったとき、彼らは、その快走に対しては実感的だが、ウィナーという高みを支えるシビアな把握においては未だ確信的ではない。

 その空洞に、殆ど予約されたペナルティが襲いかかる。形式的に完結した無自覚な快走から、内なる熱源が消失するや、中枢が喰われていくのだ。全きウィナーが得るべき何物も、そこにないのだ。彼らが手に入れたかったのは、「そこに、それが輝いていたが故に占有したかった」という達成感の記憶だけであった。

 占有感情への強迫によって放たれた身体もまた、快走気分の占有を記憶したかったにすぎなかった。それだけだった。自らを説明できない罰として、彼らは降りていかざるを得なかったのだ。



* ある人間が、次第に自分の行動に虚しさを覚えたとする。

 彼が基本的に自由であったなら、行動を放棄しないまでも、その行動の有効性を点検するために行動を減速させたり、一時的に中断したりするだろう。

 ところが、行動の有効性の点検という選択肢が最初から与えられていない状況下においては、行動の有効性を疑い、そこに虚しさを覚えても、行動を是認した自我が呼吸を繋ぐことを止めない限り、彼には行動の空虚な再生産という選択肢しか残されていないのである。

 このとき自我は、自らの持続的な安寧を堅持するための急拵(きゅうごしら)えの物語を作り出す。即ち、「虚しさを覚える自分が未熟なのだ。ここを突破しないと私は変われない」などという物語にギリギリに支えられて、彼は自らを規定する状況に縋りつく以外にないのである。

 彼には行動の強化のみが救済になる。
 そこにしか、彼の自我の安定の拠り所が見つからないからである。行動の強化は自我を益々擦り減らし、疲弊させていく。負の連鎖がエンドレスの様相を晒していくのである。



* Aという答えしかあり得ない状況の中で、Aという答えを表出することは身の危険を高めることを予測し得るとき、人は一体、何と答えたらいいのであろうか。ここには、人間の自我を分裂に導く最も確度の高い危険が潜む。人はここから、どのように脱出し得るのか。

 人間はこういうときに、或いは、最も残酷な存在に変貌する。

 自分以外に自分の行為を抑止し得る何ものなく、且つ眼の前に、自分に対して卑屈に振舞う下位者の自我が映るとき、Aという答えしかあり得ないのに、Aという答えを絶対に表出させない禅問答の迷路に追い詰めたり、AでもBでもCでも可能な答えの中で、いずれを選択しても、必ず不安を随伴させずにはおかない闇に閉じ込められてしまったりという心理構造をダブルバインドと呼ぶなら、それこそ、人間の人間に対する残酷の極みと言っていい。

 何故なら、相手の自我を分裂させ、それを崩壊しさる行為以上の残酷は、自我によって生きる人間世界には容易に見当たらないからだ。
 


* 「あいつを倒せ」という志で集合する共同体は、「愛」という名を被せた数多の共同体より、その「集団凝集性」においてしばしば勝る。共同の敵を持つ者の「集団凝集性」(組織がその成員を引き付ける力)は、目標に向かって内部秩序を形成する強靭さにおいて、愛し合う者同士の情感言語の脆さとは比べものにならないだろう。

 残念ながら、人工的に仮構された特定的な敵の存在それ自身が、内側を常に鍛え上げる「憎悪の共同体」こそ、何よりも最強の共同体と化してしまうのである。



* 人は皆、愛し合わなければならないという説教ほど胡散臭く、虫酸が走るものもない。現実にはありえないことだからだ。

 現実にありえないことを理念化してしまうから、そこに無理が生じる。無理な理想を追求するのは自由だが、それを倫理や宗教のフィールドで、いかにも起こり得る現象のような空気を過剰に作ってしまうと、しばしば現実が理念に引き摺られて、そこに極端な物語が分娩されることがあるから厄介なのだ。

 「愛の不毛の現代状況」とか、「都市の砂漠」とか、「暗黒の近代」、「社会の荒廃と、その閉塞状況」等々という、一点拡大の不確かな時代像によって、平気で十字軍に与することができてしまう短絡性こそ、多くの「愛の戦士」の喰えない厚顔さである。

 人が憎しみ合うことが、なぜ悪いのか。単に同盟を結ばないことによって貫徹し得る憎悪こそ、人間の高度な知恵の結晶ではないか。「憎いけど殴らない」という学習もまた、そんなスキルの一つである。「憎悪の美学」の立ち上げもまた、充分に可能なのだ。



* 闇を殺したはずの近代の其処彼処に、闇が出没して止まないようである。超快速的近代の輝きの中で、自ら潜り、地上との回廊を封鎖した上で、様々な批判に毒針を放つ快楽を止められない自我が、安直に捨てられていく。捨てられた者の氾濫の尺度が、実は精神の近代の鈍走の指数でもある。

 果てしなき欲望を追求する近代は、それに毒針を放つ者との同居を不可避としている。輝きの近代の見えない地下網に、様々な闇が根を張っているのだ。闇を制圧するだけの体力が、未だ私たちの近代には備わっていないのであろう。一切は、未知の領域に属しているのだ。その怖さこそが、光の近代が本質的に内包する厄介な事態なのである。



* 快楽を目的とする匿名者が特定他者を甚振(いたぶ)って手に入れる快楽が、自分が仕掛けた攻撃によって一定の功を奏し、そこで相手の苦吟を確認することで手に入れる満足感にしばし浸れるが、しかしここで厄介なのは、その満足感は一回的なものでしかないということだ。

 甚振ることを止めない者は、更なるレベルの満足を求めることになるので、そこにいつまでたっても、自己完結の最終的達成点が手に入らないのである。

 より手応えのある快楽を手に入れるために、その攻撃の質を高めていかざるを得ないエンドレスの構造を持ってしまうということ。それが厄介なのだ。次のより高いレベルの快楽に流れていくことで、いよいよその様態を変えていくのである。満足感というものに明瞭なゴールを持たない限り、快楽を求める人間の暴走は決して一箇所に留まることはないだろう。



* メディアは陰鬱で、不明朗な者を殆ど確信的に駆逐した。

 近代の輝きは、メディアの強力な援軍を得て、過剰な光彩を放って止まないのか。元気印の者たちの、威勢のいいマーチが茶の間に攻め込んで来るが、大抵の人たちは、マーチに乗り切れない微妙な隙間を埋め切れないでいるようにも思われる。

 エンドレスな日常の冗長さから脱出するためには、時間を苛酷に潰していくしかないと感受するかの如き、このパラドックスな現実感覚。不必要な疲労を溜めることで、マーチの海に呑み込まれ、それが伴奏する流れの中で、小器用に半睡する技巧さえも手に入れたのか。

 決して目立つことはないが、しかしそれなしには立ち行かない日常的な営為の継続性に、私たちはあまりに敬意を払うことを忘れすぎていないか。特段に明朗でもなく、旺盛な活力を見せる必要もない普通の人生の重量感こそ、多くの普通の人々に相応しい。過剰なる前向きマーチの騒々しさに対して、恰もそれが、選択的な自我戦略であるかのような読み換えによって、安易に武装解除するなかれ。



* 「単純化」、「誇張化」、「感傷化」―― この三つが、放送メディアを介して固められていく現代文化の主潮流である。

 複雑な思考回路を省き、取るに足らない情報を過剰に煽り立て、消費し切るまで情緒的なラインで垂れ流す。情報が大衆に下降する速度が早まるほど、この現象は止まらないのだ。



* 比べることは、比べられることである。比べられることによって、人は目的的に動き、より高いレベルを目指していく。これらは人の生活領域のいずれかで、大なり小なり見られるものである。

 比べ、比べられることなくして、人の進化は具現しなかった。共同体という心地よい観念は、比べ、比べられという観念が相対的に停滞していた時代の産物である。

 皆が均しく貧しかった人類史の心地良い閉塞が破られたとき、自分だけが幸福になるチャンスを与えられた者たちの大きなうねりが、後に続く者への強力なモチーフにリレーされ、産業社会の爆発的な創造を現出した。

 誰が悪いのでもない。

 眼の前に手に入りそうな快楽が近接してきたとき、人はもう動かずにはいられなくなる。昨日までの快楽と比べ、隣の者の快楽と比べ、先行者との快楽と比べ、人は近代の輝きの中で、じっとしていられなくなった。

 比べられるものの質量が大きくなればなる程、人はへとへとになっていく。それでも止められないのだ。戻れないのだ。

 恐らく、それが人間だからである。その行き着く果てに何が待っているか、人は不必要なまでに甘めの予測を立てるが、決して真剣には考えない。それもまた人間だからだ。



* 人目に触れることなく捨てられてしまう、扱いにくい情報の全てが、肝心な情報であると言えないが、人間の醜悪さを炙り出してしまうような形而上学が拒まれ、表層の気分を転がすゲームだけが踊っている。

 輝きの近代の言語世界は、これ以上、どうやって飽満的状況を維持し続けるのだろうか。明日には屑になるかもしれない情報が、間断なく私たちの日常に攻め込んでくる。私たちは臨終の言葉を、一体どうやって紡ぎ出したらいいのだろうか。



* 「電話ボックス」―― その小さな空間の中では、露出される視覚次元のプライバシーと交換し得るに足る、聴覚次元のプライバシーの価値が手に入ったのである。この目的的なプライバシーの獲得こそ、「電話ボックス」の最大の存在価値であったのだ。同時に、私権に拘泥(こうでい)する私たちのプライバシーのスタンスとの関係においても、それはまさに、頃合のバランス感覚によって保持されていたのである。



* 私たちの日常は、「携帯」の出現によって情報漬けの時間の海に漬かることになった。「携帯」の出現は、私たちの身体感覚から「距離」という観念を壊し、逆に物理的な操作感の飛躍的な増幅と反比例して、触感的な皮膚感覚を著しく磨耗させてしまったとも言えるだろう。
 


* 侵入者としての「携帯」の威力は、限定的で、特定の生活空間における異次元的な「快走」に留まらないのだ。街に出れば普通の感覚で氾濫し、鉄道車両の空間にあっても「快走」し、店舗にあっても、エレベーターに乗っても、静寂な住宅街に戻っても限りなくその「快走」を止めないで踊っている。そこに吐き出される他人の、どうでもいいプライバシーが澱みのない流れとなって、時間と空間を切り裂いていくのだ。



* 「・・・すべし」という心理的強制力が有効であった共同体社会が、今はない。

 道徳が安定した継続力を持つには、安定した感情関係を持つ他者との間に道徳的実践が要請されるような背景を持つ場合である。親子に安定した感情関係がなく、情緒的結合力が弱かったら、病に倒れた親を介護させる力は、ひとり道徳律に拠るしかない。しかしその道徳律が自立性を失ってしまったら、早晩、直接介護は破綻することになるのだ。



* 直接介護が破綻しているのに、なお道徳律の呪縛が関係を自由にさせないでいると、そこに権力関係が生まれやすくなり、この関係をいよいよ悪化させてしまうことにもなるだろう。

 介護の体裁が形式的に整っていても、介護者の内側でプールされたストレスが、被介護者に放擲される行程を開いてしまうと、無力な親は少しずつ卑屈さを曝け出していく。親の卑屈さに接した介護者は、過去の突き放された親子の関係文脈の中で鬱積した自我ストレスを、老親に向かって返報していくとき、それは既に復讐介護と言うべき何かになっている。



* この親に対して必死に対峙してきた自分の反応は、一体何だったのか。

 そこに何の価値があるのか。何か名状し難い感情が蜷局(とぐろ)を巻いて、視界に張り付く脆弱な流動体に向かって噛み付いていく。

 道徳律を捨てられない感情がそこに含まれているから、内側の矛盾が却って攻撃性を加速してしまうのだ。この関係に第三者の意志が侵入できなくなると、ここで生まれた権力関係は、密閉状況下で自己増殖を果たしていってしまうのである。

 直接介護をモラルだけで強いていく行程が垣間見せる闇は、深く静かに潜行し、その孤独な映像を都市の喧騒の隙間に炙り出す。終わりが見えない関係の澱みが、じわじわとその深みを増していくかのようだ。



* 貧しくても子供を多く産むことの利益は、「養育費」というコストを上回る何か、即ち、単に「愛情」の対象を持つことの喜びのみではなく、その対象が貴重な「労働力」となり、加えて、自らの「老後の世話」を頼むに足る存在性として、その家族関係の内に、世代間継承の不文律が予約されていたからである。

 然るに、生活に一定のゆとりを持ち、且つ、個々の私権が保証される社会の扉を開いてしまって以来、子供を持つことの利益要件から、「労働力」と「老後の世話」という二つの構成因子が消滅してしまった。

 そこで残された利益が、単に「愛情」の対象性のみになったとき、一切は「我が子に愛情をどこまで持ち得るか」という、その固有なる関係の情緒性の濃度に依拠することになったのである。

 もし何某かの形成的な因子によって、関係の情緒性の濃度が決定的に稀薄であったなら、子供を産んだことの利益は剥落し、そこに浮遊する悔いの感情を否定するための矛盾した行為が、子供を産んだ貴方の内側を執拗に甚振ることになるだろう。

 それ以外にない育児文化の黄金律が、呆気なく瓦解した現在、かつて天下無敵であったと信じたに違いない貴方は、もう自分のサイズを逸脱した、「母性」という名の決定力に縋りつけなくなってしまったのだ。



* 家族内介護の限界が露呈して、今や第三者機関への依存なしに幸福家族の延命が困難になってきた。家族の相互扶助精神の衰弱は、私権の確立の定着が確立した家族の、その構造的欠陥を浮かび上がらせているのだ。

 ここでの家族は、情緒的求心力しか生命線がない。情緒の結合力に少しでも皹(ひび)が入れば、それを埋める物語の補填なしに、一気に解体に向かう危うさを内包する。

 私たちは今、情緒という最後の砦によって、「悠久の家族」という物語に必死に縋っている。家族内扶助を、「強制的道徳力」として箍(たが)を締めていたそのコアがなし崩しになれば、情緒の消失が家族の実質的解体に至る。あれ程勤勉で家族思いであった貴方が重度の認知症者になれば、貴方の家族は自我の連続性を失った貴方を、果たしてどこまで介護しきるだろうか。

 私権の確保を絶対とする、過激なまでに豊かな我々の社会の闇の奥に、「幸福家族」の戦慄すべき脆さが見え隠れしている。
 


* 言葉が踊る。言葉が舞う。舞っているという煌(きら)びやかさの中で、言葉は自らの質量にない浸透力を見せていく。

 思えば、「救い」とか「癒し」なる言葉は、かつては、単なる気分転換のカテゴリーで処理されていたのだ。過激なまでに豊かな国の社会では、内側の皮膜に付着した滓の類まで拭き取ってくれる、格好のマニュアルが其処彼処(そこかしこ)に踊っている。それが言葉を踊らせているのだ。  



* 「この本を読んで救われた」という類の辛さなら、自分の力で何とかならなかったのか。

 「癒し」や「救い」のマニュアルまで必要とする社会の、その圧倒的な免疫力の低さが、単に気の利いた言葉を言い添えただけの情報に、過敏に反応してしまう情緒過多の風潮を作り上げている。

 言葉の舞いを先導するメディアが推進力になって、この社会に不必要なまでに刺激的で、その内実において、貧弱な表現が飛び交っている。それはしばしば濁流となって、貴方の細胞まで攻め込んできている。



* 「察知されないエゴイズム」

 これがあるために、一生食いっぱぐれないかも知れない。人に上手に取り入る能力が、モラルを傷つけない詐欺師を演じ切れてしまうからだ。

 「察知されない鈍感さ」

 これがあるために、不適切な仕草で最後まで走り抜けてしまうのかも知れない。そこに関わる自尊心も、過剰に保障されてしまうからだ。

 「晒された、寡黙なる陰鬱さ」

 これがあるために、当人の周囲には不必要な保護の空洞が作られてしまうのかも知れない。自らの内側を、ゆっくりと深々と掘り下げていく営みが価値である時代が崩れて久しいからだ。



* 初めからそれがなく、今もなく、未来もそれがないと予想されるなら、人は各々の小宇宙で等身大の幸福を享受するだろう。

 初めにそれがなかったのに、今はそれがあり、未来もあり続けるなら、人はやがてそれなしではいられなくなるだろう。

 初めからそれがあり、今も未来もそれが当然あり続けるなら、人はそれとの共存を疑うことをしないだろう。

 二十世紀の後半、先進国と言われる国々が到達したこの人類史の革命を、人々は未だ学習し切っていない。「初めからそれがあった者たち」と、「人生の途中からそれがあった者たち」との価値観の落差の大きさを、経験的に確かめることはとても難しいのだ。

 数年単位で世代間の亀裂が現出してしまうような、あまりに性急な歴史を、私たち既に作り上げてしまったようだ。



* 作り出され、動き、取りにかかる。取ったら、それを食べ尽くし、捨てていく。捨てていく頃には、作り出されるものが生まれていて、また動いた後、それを取りにかかる。

 作り出されるものは「欲望」で、動かすものが「身体」、若しくは「知的営為」で、取りにかかるものを「生活」と呼ぶ。

 食べるという消費を経て、最後には廃棄が待っているのだ。

 私たちが所属する社会では、これらが螺旋(らせん)的に循環するから、その基本的な流れは、肥大化することによってしか正常な枠組みを決して作れない。この枠組みの中枢に私たちの普通の意識が息づいていて、ここからのドロップアウトは社会そのものの脱落になる。

 そのとき、その意識は、循環型の自給経済に向かわない限り、枠組みからの様々な排除を覚悟する他にはない。労働に向かう身体は枠組みを守る意識に引っ張られて、そこに社会的関係が構築され、各々に上手に繋がっていく。「欲望資本主義」という王道の底知れぬ求心力は、人類史上の到達が示した最も具体的な表現様態であった。



* 私たちは、何もしないことが、とてつもなく不利益になると実感させるような社会を、とうとう開いてしまった。想像したことが達成されないと我慢し難いと実感させるような時代を、とうとう開いてしまった。私たちの近代の性急な速度に、誰も首輪を架けられないでいる。



* 何者でもない者が、何者でもないことに耐えられる時代の幕が降りてから、人々は何者かであることの確認なしに時代と繋がれず、その時代を降りることも儘(まま)ならず、変形の魔力に駆り立てられて、泡立ちの幻想の森に踊っている。



* 自分が何者でもないことに耐え難い時代の幕が、とうに開いてしまっている。自分以外の何者でもないことを引き受けることと、自分以上の何者かであることを幻想することの間に、埋めようがないほどの深い溝が広がってしまっていて、人はもう、何者でもなさすぎる自分を蹴飛ばし続けるしか空気を食べられなくなってしまったか。それでも空気を食べて生きていくには、日々に自分を喰い繋いでいくしかないのだろうか。

 自分は何者でもないが、何者でもない自分についての意識の主体ではある。この主体が今、ここに在り、それ以外にはありえない秩序に向かって常に動いている。この快感を、なお手放さない人だけが宇宙を実感し、ゲームを愉しめる。



* 最も倫理的な釈迦ですら、妻子を捨てたし、アヒンサー(非暴力)を貫いたガンジーですら、不良少年を殴ったし、清貧に生きた良寛ですら、村人の援助なしには生きられなかった。博愛主義のシュバイツアーは黒人差別の言辞を遺し、強靭な信仰に生きたイエスですら、「エリエリサバクタニ」と叫んで、殉教への迷いを訴えた。

 かくも倫理的だった偉人ですら、倫理的に生きることの難しさを示している。然るに、この不徹底さこそ、人間の救いである。敵を灰にするまで解体する人間の徹底した合理主義は、それを隠蔽し切れぬ脆さの前で朽ち果てた。

 脆さの自覚の中でこそ、信念や信仰が立ち寄るのだ。脆さの自覚が、束の間の輝きを放つのである。



* 「仏教の堕落」が叫ばれて久しいが、かくも豊かな社会の中で、なぜ人類救済がリアリティを持ち得るのか。葬式仏教こそ、豊かな社会での仏教のアイデンティティを示すもので、何ら恥じ入る必要は全くない。

 人々を救済したければ、自分が一番偉いと思っているに違いない他の宗教に任せればいいし、「国境なき医師団」や、「解放の神学」の職域を荒らすこともないであろう。

 豊かな国での仏教は、ただ、人の不安を少しでも鎮める役割に徹すればいい。この国で、今できることを、誇りを持って遂行すること。それが私たちの国に似合った仏教のあり方ではないのか。



* 私権の拡大的定着と相対主義の蔓延は、限りなく「絶対原理」の欺瞞性を削り取っていき、人々は誰にも侵害されることのない「私権の城砦」をひたすら守り抜くことに奔走していくことになる。だから未だ物理的共存を強要される空間や、そこでの強制力を伴ったシステム的な共同体への関わりにおいて、少しでも、そこに馴染みにくい因子が生じたら、そのシステムに身を預けていくことの息苦しさを人一倍感じることになるだろう。

 その象徴的な物理的空間が、義務教育、乃至、半義務教育的な外的強制力を随伴した学校空間である。そこに通学する児童生徒は、例外なく、そのシステムが自らに強いる規範を受容することが前提になることで、そこでの規範意識の個々の落差が露呈されるに至るのは必然的であると言えよう。
 


* 「快不快の原理」に耽溺していた生徒や、ネグレクトされた生徒にとって、システムの中では、半ば約束事でしかない規範の遵守は圧倒的に苦痛であるか、それとも、不必要なまでに桎梏(しっこく)であるに違いない。彼らは、外的環境下での秩序の馴致に対する学習をクリアしていない分だけ、秩序の緩やかな強制力を受容する能力において決定的に不足しているのである。

 学校規範が自己の生活や意識のレベルにまで擦り寄ってくれるのなら、妥協の余地が生まれるだろうが、その逆のパターンを強いられる限り、彼らの反応はいよいよ尖ったものになっていく。適応障害の状況性を内側で捕捉してしまうとき、彼らの何人かは、その「擬似共同体」から逸脱してしまう以外にないだろう。少年非行の激増や授業崩壊が深刻になって、子供たちの規範意識の顕著な低下の現象は、殆ど歯止めが利かない世界にまで踏み込んでしまっているのだ。



* 飽食と好物食いが約束された近代文明社会の生活文化の快適さの内側に、深く静かに潜航する、「自分のやりたいことだけを、特定的に選択する」というライフ感覚の自然な流れの中で、既にそれ以外の不快極まる生活感覚と完全に切れたラインが自立してしまっている。

 それぞれの応分の自我形成を安直に果たしてきた、「身体的に成人化しただけの思春期像」を、ごく普通の感覚で社会の只中に転がしていくしかない現実が、そこにある。彼らの自我には、「嫌なものと我慢してまで共存する」ことの重要さが全く学習されていないから、「好きなときに、好きなものだけを、好きなだけやり続ける」という「快不快の原理」が、合理的且つ、現実原則的な自我の獲得の内に超克されていないのである。

 

* 児童期には、「快不快の原理」で突き抜けた世界の軟弱性が、思春期に踏み込んで規範を強要する変化を見せるとき、彼らの自我はそこで戸惑い、ストレスを溜め込んで、逃避願望を膨らませてしまうだけだろう。それほどまでに規範意識を作り出せなかった少年少女たちの悲哀の根柢には、その身を預け入れていく対象のバリアの普通の障壁が、思春期を迎えた途端に彼らの未成熟な自我を囲繞する、社会的枠組みの存在それ自身の権力的な圧力としか捉えられなくなった、狭隘な自我の硬質化した心象世界が横臥(おうが)しているということではないだろうか。
 


* あらゆる分野で心地良さを充足させている「欲望自然主義」の過剰な達成は、それを作り出した者たちの、状況感性でも届き得ない辺りにまで自律的に進化し続けた挙句、気が付いてみたら、予測し難い様々な異変の兆候を炙り出してしまっていた。「温室効果」の危機が警鐘されても、天候異変による地球環境の崩れ方を正確に予知する能力を、一体、誰が持っていたというのか。

 仮に、そのような者の辛辣な指摘があったにしても、私たちは自らの家屋が床上浸水しない限り、そのことの怖さを実感しなかったであろう。同様に物質文明を作り出した者たちの苦労を知ることなく、生まれた瞬間から快適な生活に浸っていた自我が、その快適さの有り難さを全く感受することなく身体を大きくさせても、やがてその自我にヒットしてくる不快情報に対する免疫力が形成されていなければ、その快不快の落差に翻弄されるばかりになるだろう。そして「快不快の原理」を基準に流してきた脆弱なる自我にとって、結局、情動系のラインの暴走に呑み込まれるしかないのである。

 一切は自我耐性力の、その能力のリアリティの問題であるとも言えるのである。全てが未知の領域なる世界への侵入こそが、私たちの現在的状況の真の恐怖であるのかも知れないのだ。



* 一体、この国に強固なモラルで生きた時代があったか。

 規範の厳しさの多くは垂直下降の産物以外ではなかったし、私権の氾濫が現出するまでは、「世間」という名の視線の心理学が空気を決めていた。今はマスコミがモラルや意見をリードし、衰弱化しつつある「世間」という空気を補強するのだ。共同体の解体が気配りのイデオロギーを崩してしまえば、あとはもう、何でもありの文化アナキズムが、当然の如く生まれるだろう。

 確信的に共同体を壊してきた私たちの中に、未だ覚悟の足りないヒューマニストもどきが、数多、呼吸を繋いでいる。



* ルールの設定は、敗者を救うためにあると同時に、勝者をも救うのだ。戦いの場でのテン・カウントは勝敗の決着をつけると共に、スポーツの夜明けを告げる鐘でもあった。これは、坂井保之(プロ野球経営評論家)の名言である。

 死体と出会うまで闘いつづける愚を回避できたことが、どれだけ多くの勝者を救ってきたことか。スポーツの誕生は、光の近代を娯楽の中で検証して見せたともいえる。

 それにも拘らず、近年の「遺伝子ドーピング」(遺伝子治療によって筋肉を増強)の問題に象徴されるように、未知の領域をが次々に開かれていく現代科学の状況に対して、何とか追いつき、並走するだけのスポーツルールの、この寒々しさ。

 ルールに関わるあらゆる営為に対応するに相応しい、新たなルールを設けていくことが、結局、自らを救済することになる真理を学習し切るのに、私たちはもう少し無残な血を流さねばならないよのか。加えて、「ヘイゼルの悲劇」(39名の死者を出した、サポーターの乱闘事件)の例を出すまでもなく、スポーツを観る側にも最低限のルールの確立が切に求められる常識が、なお未形成なのだ。

 私たちが、人間学的に存在し得ない「最高のルール」なるものと出会うまで、数多の最低のルールを通過する辛さから、とうてい解放されない現実が、そこにある。残念ながら、一切が幻想のようにも見えるのだ。それでもなお捨ててはならない、「より良きルール」の形成努力への覚悟。同時に、「勝者をも救うルール設定」の高度な認知なしに何も始まらないという、その身体実感を広く共有することである。



* 選択肢が多い社会。それが自由社会の強みである。同時に弱みでもある。
 情報の過剰な氾濫を防ぎ切れないからだ。当然、その中には、不快な情報をも不必要なまでに含まれている。移動も多いから出会いも多い。不快な出会いの機会も増していくだろう。家族共同体の温もりの中で安定していた自己像が、流動激しい社会の中で大きく揺れ動く。評価も定まらず、リアリズムの洗礼を受けて、一気に不快情報が自我にプールされるのだ。

 自由と豊かさの代償は、ミスマッチな不快情報との遭遇機会の増大化であると言っていい。だからこそ、情報処理の合理的なスキルが求められるのだ。不快情報を上手に中和する自我の処理能力レベルこそが、人々の幸福の質を決めるのである。

 近代を快走する決め手は、「不快の中和化」の高度な技巧の達成にある。



* シネコン(複合映画館)が不潔な名画座を駆逐して、隣室の騒音を遮断するスラブ厚敷きで、インナーサッシのマンションや高級サービスアパートメントが、ハウジング・プアの広がりの中でも、木造アパートを次々に解体する。コンビニエンスとスーパーが商店街を再生不能にし、派手なホームラン合戦が、「貧打戦」という揶揄を被せた「投手戦」の醍醐味を反古にする。目立った快楽は、平凡なだけの快楽を確実に廃棄するのである。

 普通の規範を装っているに過ぎない学校に通えないのは、家庭の快楽との間に落差が大きいからでもある。「社会に出れば愉しいことが待っている」と若者に思わせた時代はとうに去り、今や、蓄熱された家庭での温もりを捨て難くなってきた。かつて、若者を早く自立させた「快楽の落差」という仕掛けは逆転し、その逆落差の故に自立の根拠が悉(ことごと)く崩された。

 現代に即した見栄えの良い「快楽の落差」こそ、数多の人々の決定的な行動原理となって、なお近代の目眩(めくるめ)く快走を深々と印象づけている。



* 豊かさは自由を求める。

 自由の濃度が深くなると、自由の実感主体は、その主体についての権利感覚が増幅し、私権のエリアの確保と保証に拘泥するようになる。私権の拡大的定着が加速的に進むのである。

 私権意識の増大は、価値相対主義のイデオロギーに流れつくのだ。価値相対主義の蔓延の中で、自我強き者は強制力への反応を、その自我に繁殖させ、自我弱き者は絶対的なるものへの精神的帰属をリサーチして止まなくなる。自らが帰属するに足らない絶対的なるものが手に入らない限り、総じて、人々の規範意識は手に入らない限り、巷間ではあまりに過剰なパフォーマンスが、其処彼処(そこかしこ)で展開される。

 こうして、一見、人々の濃密な繋がりは姿を消していき、無秩序を装った未だ馴染みにくい秩序がやがて裾野を広げていく。豊かさは必ず、秩序の革命へと至るのだ。



* 多分に懐古趣味に流れていく者たちは、本気で「共同体回帰」を望んでいる訳がない。蜜の味の一切をかなぐり捨ててまで、その者たちが「古き良き時代」への原点回帰を志向しているとは到底考えられないのである。

 偶(たま)さか甘いものを食べ過ぎて、それを摂取することを悔いたとしても、特段に命の別状がない限り、「決して甘いものは喰わない」と嗜好転換する決意を固めたつもりの、件(くだん)の者たちの観念の砦が、一片の感傷を入り込ませないという精神武装によって、時空を突き抜ける強靭さを持ち得るとは、私にはとても思えないのだ。

 なぜなら、私たちは殆ど確信的に、「近代」が包摂する様々な利器や快楽を勝ち取ってきたのであり、そして半ば暗黙裡に「共同体社会」を破壊してきたのである。自らが壊してきたものの中に、単にノスタルジックな喪失感覚を蘇生させるような離れ難さを覚える何かが含まれていたとしても、せいぜい、そこで私たちが為し得るのは、その上辺だけの装飾を自分たちの暮らしや観念に接木(つぎき)することでしかないだろう。

 それは恐らく、自己欺瞞以外の何ものでもないのだ。



* 甘いものを散々摂取してきた私たちができ得るのは、明日に繋がる「今日」という時間を、どれほど丁寧に生きていけるかというその一点のみであって、それ以外ではない。私たちはそこに辿り着きたいとどこかで思っていた場所に遂に逢着したのであり、その辿り着いた場所を壊してまで戻りたい場所があるはずがないのである。

 仮にそのような者がいたとしたならば、その者は決して、私たちが辿り着いたこの場所で心地良く共存している訳がないのだ。だから、奇麗事で塗りたくった中身のない言辞を吐き散らすのは、もう止めた方がいい。私たちは常にどこかで愚かであり、醜悪であり、あまりに不完全なるホモサピエンスでしかないのである。
 


* 東大を出た人が、自分を知らない人に自分を説明するときに、その学歴について全く言及せずに済ましたら、却って不自然に見られる空気が未だ残っている。

 自分が或る一定の能力をもつことを示す有効なカード、それが学歴である。そのカードを使うことによって得るものが、それを使うことによって失うものの大きさを圧倒的に上回っていると信じられるから、それは有効なのである。

 このカードの直接効果は差別化の満足感であり、間接効果は自己宣伝のコストの節減であり、膨らませた自己イメージを丸ごと売られる様々な経済効果である。社会に出てから十年程の戦線下で、このカードを最も有効に使えなかった者には、このカードの重しが人格を蝕んでいくというリバウンドも待っている。カードの取得者にも覚悟が必要なのである。



* スポーツは純粋で美しく、且つ、感動的であるという手強い幻想は、それに熱く関わる人々に届けられる名状し難き心地良さと、決して無縁ではない。この幻想のお陰で、世のスポーツマンの多くは、人格セールスのコストを削減できた分だけ、イメージ定着率の速度は群を抜くに違いない。

 十九世紀の国際登山レースで、下にいるイタリア隊めがけて岩を落としたクライマーの話を信じないのは自由だが、スポーツマンの感動性の否定をも描いた、「炎のランナー」(ヒュー・ハドソン監督)というイギリス映画のリアリティは必見ものだった。スポ根物語も、友情の迸(ほとばし)る輝きもここには何もなく、ただスポーツというステージで、人生を切り取る若者の息吹が記録されていただけだ。それ故にこそ、映画は新鮮な感動を生んだが、当然の如く、不入りだった。以来、アンチ感動のスポーツ映画は滅多に見ない。



* かつて、某民放に長寿の人気番組があった。歴史上の人物を取り上げて、泣く子も黙る英雄に仕立て上げる。どんな人間にもある筈の人格的欠陥に言及するときでも、不幸な環境との脈絡の中で特定的に拾い上げていくから、最後は、女性ゲストの涙と、思い入れたっぷりのナレーションでまとめてしまうのだ。強引に感動篇を放ち続けることに、何か特別の使命感を背負っている者のように、恣意的に他人の人生を切り取って、視聴者に感動の共有を迫っていく。

 この程度で感動を呼べると考えているかのような無邪気な感覚に言葉を喪うが、近年著しい、表文化の「善転がし」の氾濫に赤面する日々が続いている。盗聴、告発、強迫等の裏文化から「善殺し」もまた止まらない。善を巡ってのテロルや闇討ちは、己を隠さなくなった善行者の無邪気な振舞いへの強烈なリバウンドになって、喚起し続けるのか。



* なぜこの国では、人間を描くときに善意二元論で安直に流してしまうのか。

 凡ての感動篇は「神の如き心を持つ者」の英雄伝説となり、それに抗うデーモンは英雄を引き立てるためのキャラクター以外の者にシフトできず、つまる所、おしん、金八、水戸黄門のラインで多くが処理されていく。

 ドラマの大半が束の間の娯楽であって、決して人間の複雑さを掘り下げていく深みには、当然の如く達し得ない。人間学の履修となる筈の、ある種の映画文化は極端に敬遠されて、印象のけばけばしさが空気をリードする時代の幕は中々下りないのだ。

 表文化が不断に毒素を中和してしまうから、難解殺しの革命は、一見、含みを持たせた感傷のベールに包まれて、世界をより確実にフラットなものに仕上げていく。



* 世界は既に貴方なしで動いていた。世界は今も貴方なしで動いている。世界はもう貴方なしに動いていく。貴方だけが世界なしに動いていけない。貴方だけが貴方なしに動いていけない。


 
* 宇宙は、意志なしに創造されてしまったのだ。
 世界は、貴方なしに動いてしまっているのだ。

 貴方もまた、決意なしに飛び出してしまったのだ。そして世界はまた、貴方なしに化け続けているのだ。宇宙もまた、貴方なしに壊れていくかも知れないのだ。

 貴方は世界なしに生きられるか。宇宙なしに呼吸を繋げるか。歌えるか。踊れるか。その理不尽を堪えられるか。そこを突き抜けられるか。。

 貴方なしで平気で動く世界を壊さずにいられたら、貴方は既に、固有の律動を手に入れつつあるかも知れないのだ。そこまで行けるか。そこまで潜り込めるか。



* 世界を覆う混迷や、不安の発生源の一つに、時代像の不確かな彷徨と、そこに根ざした様々な規範や幻想の剥落という現象がある。

 中高年の多くが通勤電車の携帯電話の会話に違和感を覚えるのは、知りたくもない他者のプライバシーが侵入することに、未だ馴染んでいないからであり、「物理的連帯感」によって成った「車内文化」の幻想が壊れることで、過去との繋がりが切られることに耐え難いからである。

 人は決してあるがままの世界に生きているのではなく、その世界を様々に解釈して、時代の加工を重ねながら、皆、自分なりに切り取って生きているのである。変化の幅と速度が大きいために、人々の解釈の変更が定まらず、秩序なしに落ち着けない感性の主には、今や、手頃な「消費としての癒し」だけが救いのコードになっている。

 百万円を払えば、クルーズ船で南極観光が容易に手に入る時代が置き去りにするのは、サムシンググレ-ト(自然の偉大な力)を消費した後に、自らが覚悟なくして降りて行けない「エンドレスなる日常性」の、その寒々とした風景であるのか。



* どうも私たちは、過剰な視覚文化の中で想像力を貧弱にさせた結果、様々な意味での距離感を失ってしまったらしい。環境や状況における自分のサイズが測定できなくなって、正確な自己像を描けなくなっているのだ。だから、いつまでたっても、等身大の生き方に逢着できないのである。

 近代文明社会に呼吸する私たちは、その文明が必然的にもたらした過剰な快楽と塵芥(じんかい)の中に、せめて自分に見合った日常性を構築するしかないのだ。

 私たちはこのリスキーだが、しかし、快楽の種子が存分に詰まっている社会に呼吸する。これはもう避けようがない。いつでも私たちは、「いま」と「ここ」に生きていて、これも避けようがない。避けようがない私たちの運命は、多分、人類史の運命そのものだろう。散々甘いものを摂取して肥満になった責任を、社会に押し付けるのは止めたほうがいい。文明の恩恵に素直に感謝しつつ、相応の覚悟をもって時代と付き合っていくしかないのである。



* 性急な現代人は曖昧さと共存することを忌避する傾向が強いため、常に分りやすく、誰の眼にも見えやすい飛躍的な結論に、事態の因果関係の軟着点を求める短絡性を往々にして晒していると思われる。そこに、「単純化の時代」の危うい陥穽が潜んでいるのである。仮説の検証の難しさを認知する合理的な知性こそが、切に求められる所以なのだ。

 「社会が悪い」、「今の若者は・・・」という常套フレーズが、人類史を貫流させてきた現象の滑稽さを、私は今更のように感受する次第である。

 全く誤謬のない完璧なシステムを、当該社会が具備させることが困難なのは、人間が不完全な知的生命体であるからだ。

 とりわけ、近代以降の歴史が直面するテーマが、いつでも「未知の領域」への開拓と果敢な突破という、厄介な事態を背負っているので、より複雑で、分業化した社会に呼吸するハイパー近代の現実の中で、人々が事態の情報処理を「単純化」させようとする心理は決してパラドックスなどではないのである。寧ろ、そういう厄介な時代であるが故に、常に飽和点に達しつつある人々のストレスを、違和感なく吸収し得る簡便な情報処理の方法論として、より「単純化」させようとする心理が自然裡に形成されたとしても可笑しくないのだ。だから私たちは安直に、この陥穽に搦(から)め捕られてはならないのである。



* 都市生活者が身近な距離に住む者の不幸に鈍感でいられるのは、その者との心理的、且つ、生活的な距離感が隔たっているからである。そして、そのことによって他人の不幸が自分の不幸に直結しないという現実、これが何より重要なのだ。

 同時にこのことは、私たちがより豊かな生活と私権の拡充を求めて、半ば確信的に壊してきた村落共同体の社会において、その成員が他者の不幸の現実に寄り添うことができたのは、まさに他者の不幸が自分の不幸に直結してしまうからであることを示している。だから人々は、皆優しかったのであり、過剰なまでに他人のプライバシーの中に侵入してきたのである。

 この社会が今、もうこの国では殆ど絶え絶えになっているということ、その認知こそがここでは重要なのだ。だから都市生活者が常に冷淡であるという把握は、事態の本質を無視する極めて乱暴な議論という外にない。


 
* 均しく貧しかった時代の終焉を告げる象徴として、人とほんの少しの差をつけることに人々が怒涛のように雪崩れ込んだ、この国の教育加熱現象があったのは印象深いところである。

 思えば、私たちが否定的なニュアンス含みで使用する「学歴社会」という概念は、実の所、能力以外で人を差別する社会を克服する一つの達成点でもあった事実を無視するわけにはいかないであろう。教育加熱現象は、そんな社会が生み出した一種必然的な結果でもあったということだ。



* 相手を見くびる心は、結局、自己を冷厳に相対化する能力の欠如に由来するということだ。現実の悲惨な展開の中で、闘争心の持続が弱く、勝気(強気ではなく、そこに濃密に見栄が媒介し、知人の前で単に恥を晒したくない感情)なだけの民族は負け方にも格好をつけようとするので、一時的に相手から恐れられ、それが却って不幸を増幅させるのである。



* 勝気の強がりは、実は自壊感覚の否定の自己確認である。

 強がりの奥に広がる「喪失のペシミズム」が、遂に玉砕戦という禁じ手の封印を解く。「砕けて散る」ことは、早く楽になる戦術であるばかりか、格好も付けられる。これは相手を畏怖させる絶大の効果を持つばかりか、味方を奮起させる。恐らく、この味方に対する見栄こそが、玉砕戦の心理のコアにあるということだ。



* 子供が、大人または大人社会によって、自分の意思とは無縁な辺りで遺棄されるような苛烈な環境に置かれていて、その子供の現在的なキャパシティを遥かに越える適応を、彼らを囲繞する環境から強いられたとき、その子供が自分を理不尽な状況下に置かれた現実を、邪悪、且つ否定的な感覚で、その幼い自我の内に把握することによって、その子供が、これまでの負性の関係史を反転攻勢させる意志に繋げる薄明の文脈を身体化するということ。

 それは、幼い自我の明瞭な大人、または大人社会への異議申し立てであり、しばしば、激越な行動を随伴することで、一見、「子供VS.大人・大人社会」という短絡的な関係構図の内に、「聖なる子供十字軍」の進軍が発動されて、画面一杯に、その高らかな雄叫びや浮薄なアジテーションが、多分に感傷含みで刻まれていくであろう。

 私は大枠において、このような溢れ返るような映像表現の類の作品を、「聖なる子供十字軍」の、殆ど遊戯的なコミック映像群と呼んでいる。近年、この類の映像群が巷に氾濫し、そこで作り出された「状況性」を引っ張っているのは、紛う方なく、浮薄なる「モラル」のみで一切を語って止まない、「情感系映像の過剰なナルシズム」の暴走以外ではないであろう。



* 「閉塞感」―― 私が最も厭悪(えんお)する言葉の一つである。

 人々が「閉塞感」と言うとき、それは様々な情報の洪水の包囲網にあって、自らの意志的決断による人生の切り拓きを、能動的に向えない脆弱なメンタリティの言い訳であるか、それとも、明日のパンの保障がないギリギリの生活環境とは無縁に生きてきた者たちの、それぞれのアイデンティティの欠如感覚を言い換えた、安直なる概念に過ぎないのである。

 動くべきときに動かず、走るべきときに走らず、どこかで何となく浮遊しているような気分の様態を、私たちは感覚的に、「閉塞感」と呼んでいるだけなのだ。



* 現代マスメディアの目に余る過剰さ―― 私はそれを「特定他者の消費の構造」と呼ぶ。それは私流に言えば、「三つの過剰、一つの安心」という言葉に要約されるものである。

 まず、マスメディアがバッシングの対象者(=特定他者)を、その様々な情報網(視聴者からの内部告発を含む)を駆使して発見するか、または後発のハンターたちがメディアスクラムを組んで、既に話題となった対象者に対して、身勝手な自己基準に則って襲い掛かっていく。

 そこで得た末梢的な情報を束ねて、それをスクープを仕立てるべく、集中的、印象的に情報誘導する。そして視聴者が不断に求める消費の需要に応えるべく、それらを毒気含みで選択的に流していく。そこで流された情報を、流した者の意に沿うようかのにして視聴者が受容し、フォローしていくのである。ある種のモラルパニックが形成されていくのだ。

 そして標的にされた特定他者は、その過剰な攻勢に、多くは自衛網を張っていくことで両者間は緊張し、訴訟騒ぎに発展する事態をも招来する。攻勢をかける者たちはそれでは収まらず、しばしば泥沼の闘争を常態化することにもなる。

 つまりこれは、「負の自己完結」(攻撃の対象者が土下座するまで続く、本質的には対自我暴力のことで、私の造語)の構造と把握できるものであるが故に、ここに何らかの形でアクセスした人々には、特定他者が「安心」を供与してくれなければバッシングに終わりは来ないのである。



* 大衆消費社会は、絶えず人々のストレス解消の標的になり得る「特定他者」を作り出して、その対象となった人物や集団を裸にして、存分に消費せざるを得ない構造性を内側に持っているようである。

 そこでの裸のされ方には、共通の文脈がある。

 まず彼らの履歴の中で、彼らが如何に「悪」であったかということが、周囲の者の回顧を通して語られる。「善良」なるイメージを初めから被せられた人々の回顧によって、被疑者たちのキャラクターに特定のイメージを持たせていくのだ。恐らく、公判の中で重要視されることもない、「善良市民」のテレビ用コメントがリフレーンされることで、視聴者の被疑者に対する人間観が固まっていくのである。

 そして第二に、被疑者がその犯罪に至るまで、いかに良い思いをしてきたかということが、扇情的メディアを介して繰り返し語られていく。そのことで、普通の水準のメディアリテラシーを構築し得ない人々の憎悪感情が、いよいよ増幅されるのは言うまでもないであろう。

 そして第三に、例えば、テレビのコメンテーターと称する浮薄な連中が、事件への情緒含みの反応を連射していくことで、事件全体を一つの方向性を持ったイメージに仕上げていくのである。

 「被害者にも人権がある」

 これは、彼らの常套句の一つ。

 実はこんな当たり前の、言わずもがなのフレーズを表出していく以外に彼らの存在価値はないと言っていい。このような表出こそ、大衆消費社会が事件を括っていくときの、もう一つの自己完結点になるということだ。

 人々は「安心」を得ることで、消費を完了すると同時に、裁きの快楽も手に入れたいのだ。本当は呆れるほど長い時間をかけなければ見えてこない本質的な何かがあるかも知れないのに、公判の緒に就く遥か以前に事件を括り、性急な自己完結を果たそうとするかのように見えるのは、事件そのものが消費の対象になっているからである。

 

* 「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督)という有名な作品がある。

 一人の強靭な意志と勇気と判断力を持った男がいて、その周りに11人の個性的だが、しかし、決定的判断力と確固たる信念による行動力に些か欠如した、言ってみれば、人並みの能力と感情の継続性を保有するレベルの者たちがいた。その中には、理屈に偏向する者や、感情や経験に大きく振れていく者もいたが、しかし決定的局面では、決定的判断力を示した一人の男の、その一貫した主張のうちに吸収されてしまう継続力の脆弱さを、まるで敗者の如く露呈してしまったのである。

 しかしよくよく考えてみれば、11人の者たちが示した人間的な思考や感情こそが、通常の生活次元での表現であったと言っていい。なぜならば、状況に応じて振れていくのが人間であり、その状況が展開した変化のうちに真実が見えてくれば、その真実に対して肯定的に反応していくのが、人間の平均的な行動の様態であると言えるからだ。

 従って、この映画は優れた傑作であることは否めないが、しかし一人の「平凡」な顔をしたスーパーマンによって、極めて困難な空気を決定的に洗浄させてしまった作品として、ハリウッド好みの英雄譚の範疇に収斂されてしまったのである。それは、常に強い指導者を希求して止まない、アメリカという特殊な文化風土が生み出したヒーロー譚と言って良かった。裏返せば、アメリカという、多くの民族を束ねる帝国的な国家に住む者たちが、そのようなヒーローを必要とせざるを得ない強面(こわもて)の過剰さを、いつもどこかで抱えていることを物語っているとも言えるのだ。



* 「自我が精神的、身体的次元において、統御可能な範囲内にある様態」―― 私はそれを「人間らしさ」と呼ぶ。

 例えば、耐え難いほどの肉体的苦痛が継続するとき、間違いなく自我は悲鳴を上げ、その苦痛の緩和を性急に求める。しかし、その緩和が得られないとき、その自我は確実に抑制力を失い、破綻の危機を迎えるだろう。或いは、身体の四肢麻痺状態が、その身体の死に及ぶまで永久に続くことが回避できないとき、その患者は自分の身体の介助を他者に絶対依存しない限りその生存の保障はない。

 従ってその患者は、自らの身体の清拭を他者に依存するばかりか、排泄の全面的な介助をも求めざるを得ない。カテーテルによる排尿を世話してもらったり、糞便の処理まで依存することになるのだ。例えそこに、相手の善意を感じ取ることができたとしても、「絶対依存」とも言える、その現存在性を何十年もの間継続させてきて、機能を失った殆ど別の物体と化した自己の身体に一貫して馴染むことができず、更にその自我が、それ以前から作ってきた自己像との矛盾を克服できないとき、人はそこに、自らの人格としての尊厳を受容することが可能だろうか。

 「人間らしさ」の喪失とは、以上の例で明瞭である。

 即ちそれは、自我が自らの現存在性と折り合うことができない状態のことであり、まさに、その折り合いのレベルこそが人間の尊厳の度合いであると言っていい。私たちが人間の尊厳について定義するとき、どうしてもそこに抽象的なニュアンスが含まれてしまうのは、個々の尊厳観が微妙に異なり、極めてその相対度が高いからである。そこにこそ、尊厳死の問題の難しさと深淵さがあるのだ。

 

* 世界一の長寿国という建前の誇りの陰に、他者の介護なくして生存できない弱者なる者たちが無秩序に、奥深くまで散らばっている。

 彼らにとって決定的なのは、介護する者の手の温もりとその眼差しの行方である。誰によって介護されたかではなく、介護する者の人格と、どのような心理的共存を可能にしたかということ、それ以外ではないのだ。相手の温もりと眼差しの評価は、一人、弱者の独断と偏見のうちにある。この我が儘だけが弱者に与えられた特権的権力である。

 然るに、この「疾病利得」という権力を無闇に行使する弱者の運命は、先が見えている。張子の虎の権力者は、合法的に遺棄される運命を免れないのだ。だから利口な弱者は幻想の権力を小出しにするか、或いは、それを垣間見せるだけで何とか精神的優位を確かめようとする。この半ば潜在的優位感だけが、自らの絶大なるハンデに拮抗するのだ。ここで手に入れた関係幻想が何某かの快感を随伴してきて、不快なるものを駆逐できれば、幻想の崩壊の少なからぬ防波堤にはなるだろう。



* フィリップ・アリエスの「子供の誕生」などの著作に詳しいが、18世紀のブルジョア家庭から子供を可愛いがる風習が生れ、余剰農産物を獲得した余裕から、親にとって子供は情緒的満足の対象となっていく。因みに、「エミール」の著作で名高いルソーは、自分の5人の子供を全て施設に捨てたという事実があり、「告白」に詳しい。これがフランス革命前のヨーロッパ社会の一般的風景だった

 歴史上はじめて、「子供」が普遍的に「発見」されたのである。「子供」の発見は、同時に、「青年」や「女性」の発見でもあり、「少年期」や「青春時代」の誕生でもあった。

 木村尚三郎(「家族の時代」)によると、「女性」が発見されたのもこの近代社会の過程をを通してである。それまで女性は、少々力の弱い大人であり、中世では、夫の代わりに相手貴族と法廷決闘する権利を持っていたのである。

 一切は近代社会が変容させていく。近代になって、女性と子供は男により保護されねばならない存在とされ、むしろ社会から除外されていった。(ナポレオン法典では、女は無能力とされ、夫の家長権が確立する。女性の無能力制度の確立である)

 「青年」や「女性」の発見は、同時に「恋愛」の誕生を告げたとも言える。青春期に愛を育み、遂に結婚に至るという西欧型の「恋愛物語」というものが近代の産物ということなのだ。例えそこに時代の制約があったとしても、ブルジョアジーにとって近代家族とは、恋愛結婚を経てゴールインしたカップルが、そのまま恋愛物語を平行移動させた結果創出された心地よき小宇宙だから、最初から「過剰なる情緒性」を同伴させているのである。

 このカップルに子供が産まれるや、彼らの「過剰なる情緒性」は子供に流れていく。近代家族を特徴づける核家族は、丸ごと情緒性に満たされているのだ。核家族としての近代家族が、愛情原則によって貫流されているのは、その本質が情緒的共同体として機能しているからである。「過剰なる情緒性」――― これこそが、近代家族の求心力であるからだ。



* 近代社会は私たち人間に、ペット犬を飼う経済的余裕とその適正飼育のノウハウを保障してくれてた代償として、一部の犬を自然の法則から解放し、人間が保護しなければ存在すら不可能なまでに人工化してしまった。

 これをズー・セオリーと言うが、ペット犬とはズー・セオリーの一つの逢着点である。しかし驚くに及ばない。近代社会のズー・セオリーは、対人間への支配戦略において完成をみるのである。アメリカの旧信託統治領への食糧管理戦略は、ズー・セオリーの極点である。聖書にも書いてあるそうだ。人を支配したければ、食糧を与えるに限ると。



* 「鳥は生を名づけない ただ動いているだけだ 鳥は死を名づけない ただ動かなくなるだけだ」―― これは、谷川俊太郎の有名な詩の一節だ。

 鳥や他の動物がただ動いているだけでないことは、「キツネさんキツネさん理論」(餌を求めて雛が親を恫喝)や、ザハヴィの「ハンディキャップ理論」(捕食を断念させるようなパフォーマンスをすること)などによって否定されるだろうが、「死を知らない」ということだけは否定しようがない。なぜか。動物は自我を持たないからだ。

 自我とは、極言すれば、「死」の認識なのだ。これは人間とって不幸な事態でもある。なぜなら「死」の認識によって、「死」への恐れが生じ、過剰なほど卑屈な態度を晒し、且つ、その振舞いを目撃する羽目になったからである。

 「死」を発見した最初の人類が、あのグロテスクなネアンデルタール人であるという点に関しては異論がなさそうだ。イラクのシャニダール遺跡から出土した埋葬遺跡は、彼らが明らかに「死」を意識した最初の人類であることを物語るだろう。彼らは友人や親や子の死体を埋葬し、しかもタチオアイなどの花を添えることで、その死を悼んでいるのである。

 驚くべきことは、この遺跡から身体障害者と思われる仲間の埋葬も確認されているのだ。これは人間の、人間に対する哀感や共感の感情が既に発生していたことを検証するだろう。即ちこの遺跡は、人類に自我の誕生を告げる決定的な遺跡と言えるかも知れないのである。

 恐らく、「適応度最大化の戦略」(絶やすことなく、多くの子孫を残すこと)に失敗したであろう彼らは、私たち人類の直接の祖先ではないが、彼らが肥大化させた脳とほぼ同質の大脳新皮質を持つ私たちホモサピエンスは、その極端に肥大させた脳によって、超文明社会を構築するに至った。一切は、私たち自我の為せる技なのだ。

 岸田秀が言うように、人間にこのような「自我拡大衝動」があるとすれば、私たちの未来は、肥大しすぎた脳を作り上げてしまったために、一歩ずつ絶滅に近付いているのかも知れないのである。



* 人間のDNAと99%の類似を示すチンパンジーですら、どうも「死」を認識できないようなのだ。

 ある母親チンパンジーは自分の子が死んだとき、いつまでも我が子の死骸を抱いて移動していたという報告がある。これは我が子の死を悼んだ母子の情愛を示すというよりも、共存によって生じた愛着によって、我が子の「死」を認識できずに、方向性を持てない振舞いを継続させていると考えた方がいいかも知れない。なぜなら、仲間の死に対して全く何の反応もしないという多くの報告が、ジェーン・グドール(イギリスの動物行動学者)らによって示されているからだ。人間に最も近いと言われるボノボですら、自我の痕跡が認められないのである。

 人間だけが、「死の文化」を持つのだ。

 幸島のニホンザルのイモ洗い文化や、グドールが報告したチンパンジーのシロアリ釣り文化などを、文化のカテゴリーに含めねばならないだろうが、それでも人間の文化と、それ以外の霊長類の文化は厳然と分けられよう。人間の文化とは、ある種の「自我の拡大衝動」による極めつけの観念装置であると考える外はないからだ。



* 子供が大人になるための特殊な時間を用意してくれた近代社会は、「国民国家」の社会でもあった。資本主義経済の登場によって、人と物の移動を制限する必要から生まれたこの社会は、国家の権力が及ぶエリアに「国境」という名のボーダーラインを引いて、その域内に住む人々を「国民」と命名した。当然の如く、「富国強兵」を目指したこの「国民国家」は、「主権」、「領土」と共に自らの拠って立つ基盤を構成する、自国の「国民」に対する外的強制力を必然化した。

 子供は一日でも早く「国民」に育てねばならないのだ。ここに学校教育が誕生したのである。「国民国家」の、この外的強制力の中で「青春期」が分娩されたと言っていい。

 その特定的な時間の中で、この「国民国家」は、いつか「国民」に成長するであろう子供たちに、文学などに親しむ一定程度の時間を許容したのである。「シュトルム・ウント・ドラング」(ゲーテに代表される、18世紀後半のドイツの革新的文学運動)とは、このような国家の許容範囲の内側に開いた「青春」誕生のモニュメントであったのだ。



* 青春期を生み出した「国民国家」そのものの変貌 ―― 「国民国家」にアイデンティティを与えた資本主義と国境ラインが、極めてシンボリックでドラスチックな「20世紀的現象」であった、「理想国家としての社会主義」の事実上の消滅化によってボーダーレス化し、冷戦の終結とあいまって加速的な国際化が止まらなくなった。

 加えて、先進諸国の経済成長が生産力の余剰を生み、「青春期」から外的強制力を完全に払拭してしまったのだ。長期に渡る不必要なまでのモラトリアムの許容の中で、私たち大人は、子供一般に対して、「教育」という名の強制力によってしか、今や「青春期」の中枢的な発達課題としての、彼らの「自我の確立運動」を充分にフォローできない現実がここにある。



* 国家的・文化的強制力を失った近代社会は、子供たちに、「自分のために勉強しろ」としか言えなくなっているのだ。このとき、「自分のためならやらなくてもいい」という類の、子供の我が儘なトリックに反論できない大人が多く存在するほどに、もはや教育という名の文化的強制力を持たなくなってしまったのである。

 子供の自我は大人の自我に組み換えられねばならないという当然過ぎるほどの理屈に、「どうして?」という大人が出現する近代社会とは一体何なのか。

 「子供の自由」に対する大人社会の、その拠って立つ倫理的混乱が極まってしまったのだ。子供と大人の相違は、何よりも「自己決定権」を持ち得るか否かという点にあり、そこには、何ら情緒的な解釈など入り込む余地などないのである。これが私たち民主社会の、一つの毅然としたルールでなければならない。子供と大人は享受する権利が異なるという厳然たる事実を認めない限り、子供の我が儘な暴走を制約する、一切の法的根拠が済し崩しにされてしまうのだ。現代社会の混乱は、このあまりに当然過ぎる文脈の共有の顕著な劣化によって惹起されているのである。 
 


* 子供たちの規範意識の目立った劣化が、それでなくともアナーキーな空間である「学級」という名の教育現場において顕在化したとき、彼らと「教育」的に対峙するべき教諭たちの尻ごみを批判するのは安直過ぎないか。教諭たちが抱える課題の艱難差の根底には、まさにアナーキーな空間である「学級」の問題点 ―― それをドイルは、生徒の行動の「同時性」、「多様性」、「即時性」、そして「予測困難性」のうちに集中的に現われていると説明した。学級運営の危機が、恐らく、現代の先進国の教育状況の崩壊のシビアな現実を検証してしまっているのだ。



* 一貫してこの国には、若者たちの前に立ちはだかるべき「大人たちの不在」の問題を抱えているという、由々しき現実がある。

 それでも均しく貧しかった時代下には、その時代が要請した分だけの自我耐性力が存在した。その点においてのみ、恐らくレトロ嗜癖の人たちは、高度成長下の変容のダイナミズムに思いを馳せているに違いない。今にも倒れそうな長屋住まいを強いられていた私には、「昔の懐かしさ」を回顧する一切の情感系の心理文脈が存在しないのだ。

 私の周囲には、その時代が招来した風向きに合わせるようにして、そこそこ働き者だが、時代が要請した分だけの空気に乗って生きていた大人たちが、結構、元気に呼吸を繋いでいた。そしてそんな大人たちの生活圏には、相応の自我耐性力を持った多くの子供たちの闊達(かったつ)な存在があった。だから大人たちは、特段に彼らの越え難き壁となって、その小さな我儘を粉砕するに足るほどの存在性を、敢えて身体表現する必要がなかったのだ。

 今や、それなりに豊饒な豊かさを獲得したこの国にあって、ただ一方的に慰撫(いぶ)され、把握され続けてきた子供たちが、その結果と言うべきか、多くのケースで、免疫抵抗力の不足なスモールサイズ化した自我によって、その自我に必要な分だけの呼吸を繋いでいる。

 ところが、その自我が思春期を越えてもなお、その自我の前に、大人が大人であるところの拠って立つ存在感によって立ちはだかれない現実を、殆ど常態化しているように見える。この国の不幸の中枢に近い辺りで、なお「大人たちの不在」の延長という重々しい債務が、緩やかに、しかし確実に累積化されていく時間の中に、その澱みの濃度をいよいよ深めているのだ。



* 人々は生活と意識のレベルが近接すればするほど、他者の存在を無視できなくなっていく。

 均しく貧しかった時代には、他人の不幸が自分の不幸に繋がるリスクが高いので、内部強制的に相互扶助の意識が、殆ど自然裡に形成されていたであろう、「共同体の絶対的秩序」の原理が有効に作動していたと思われるが、この社会が安楽死していく流れの中で逢着した「総中流化社会」にあって、「他者の不幸が自分の不幸に繋がらない」都市化社会の坩堝(るつぼ)の中で、メディアの過剰な情報の後押しの加速作用をも介することで、他者との差異化感情が一気に開かれていくに至ったのではないか。そこでは、却って「不平等な豊かさ」を、より実感する社会を招来させてしまったに違いない。

 「総中流化社会」という名の平等化の実現は、新たなる不平等化を分娩する事態を出来させるだろう。この国では、「バスに乗り遅れることの恐怖感と、そこから降りることの不安感」を過敏に張り付けたかのような自我の、言わば、文化依存症候群(その国に特有の精神現象)的な振れ方によって、そこにある種の典型的な、「幸福競争」とも呼ぶべき社会現象を現出させてしまったのではないか。高度成長期の時代の話である。



* 錦鯉の外見美を守るために、平気で水生昆虫を食べさせる環境擁護論も可笑しいが、「ハエや蚊のいない、トンボや蝶の舞う町づくり」をアピールするナチュラリズムはもっと可笑しい。極めつけは、ある県の学校緑化コンクールで優秀賞に選ばれた小学校が、校庭美化のため夜間に除草剤を散布したというエピソード。奥井一満の、「五分の魂」という本で紹介された事例だ。

 本来の自然である野草を引き抜き、外見的に美しいものだけを大切にする私たちの欺瞞的な自然観が、ここにある。特定の動物への保護に走りやすい「動物愛護」の軽薄な情感性と、生態学的な多様性を維持し、サステイナブル・ディベロップメント(持続可能な開発)の観点に立って、その価値を増大させるという思想を視野に入れた「自然保護」との相違は決定的であるだろう。



* 近代社会では、人々がバラバラにされ、「幸福家族」という名の「小宇宙」くらいにしか、拠って立つ自我の強固な安定を見出しにくい状況になっている。

 それは、近代家族が情緒的結合力を強化する方向にシフトしていった一つの重要な因子である。

 差異化がエンドレスに開かれ、差別が陰湿化したのも、人々の自我の安定の根拠を自らのうちに収斂し切れない近代社会の、その本質的構造の故である。

 かつての村落共同体の「村八分」(?)の目的が、共同体社会に呼吸を繋ぐ人々の自我の安定が、「村八分」の対象者に対する、「差別的排除」による優越感情の確認などという文脈にはなく、ひとえに共同体自身の安定にこそあった。「村八分」の最終目標が共同体の安定的維持にこそ在り、排除や追放というネガティブな心理文脈の内に雪崩れ込んでいくものではなかったのである。

 他人を貶めることによって自分の優位を確認するという近代社会の差別の文脈は、本質的に無限連鎖の構造を持ってしまうのである。なぜならそこに、自己完結性が欠落するからである。差別や虐めは、寧ろ、豊かで平和で民主的な社会でこそ陰湿化してしまうのだ。
  


* 「母性愛」こそ至上の愛である、という手強い物語が近代の発明であることは、バダンテールらの著作(「母性という神話」)でもはや自明である。私が遣り切れないのは、こういう物語を作らなければ子供を愛することができない母親が出現してしまうという、その冷厳な現実それ自身である。

 「母性愛」などという本能を、私たち人間が持ち合わせていないことくらいは、子供を育ててみれば経験的に分かりそうなのに、それでもこの物語に固執するのは、可愛くない子供を育ててしまった恐怖を中和する防波堤にしたいからとも考えられる。この物語は、言ってみれば、情緒不安定な若い母親を家庭から逃亡させないための巧妙なトリックとも言える。優しさとか思いやりの感情は、何よりも成熟した自我から生まれるのであることを確認しておこう。



* 19世紀に詐欺や暴力によって蓄財をなした結果、「泥棒男爵」という汚名を着せられた多くの実業家は、晩年、その財を公共機関に寄贈したし、また「ゴッドファーザー」(フランシス・フォード・コッポラ監督)でも丹念に描かれていたが、マフィアは無慈悲な殺人の後、その度に神に祈ることによって、自らの行為を浄化し得ると信じたようでもあった。とりわけ、罪のない子供を殺した後、神に祈ることで自らの行為の不条理を中和化する偽善性を描いたとも思われる、「処女の泉」(イングマール・ベルイマン監督)の世界の映像表現の決定力は出色だった。

 「罪の文化」で生きると誇る彼らにとって、「良心」とは、自らの悪徳を浄化してくれる格好の文化装置であるということなのである。まさに、「人間の良心なんて、考えよう一つでどうにでも変わる」(映画「海と沈黙」の中の医学生の言葉)のだ。

 「良心」に対する異なった定義を持つ者たちが、お互いにそれについて議論し合っても、そこにどのような了解の着地点が生まれるのだろうか。一方が他方を、「良心」の名において裁くとき、それは観念の一方的な押し付けであって、多くの場合、「勝者」の傲慢以外の何ものでもないのだ。



* この国の子供たちのアンケートを採っても、「何も欲しくない」という解答が第一になるという社会を、私たちは作り上げてしまったのだ。この社会を、私たちは二度と手放さないだろう。私たちの自我に刷り込まれた快感は、加速していく方向にしか動かない。加速化を求める快感は、必ずそれ以上の快感を求めざるを得ないのだ。快感と快感の僅かな時間の隙間に、飽食は生まれる。飽食とは、次の快感を手に入れる前の小休止でしかないのである。

 飽食がより高次のレベルの快感を招き入れ、自分たちの感覚器官をますます高感度にしていくとき、これが、快感濃度の異なる現代の子供たちには、累乗効果として作用するだろう。大人の高感度の刺激情報が、子供の自我に刷り込まれる一方、子供自身もまた、快感情報を自分の感性で濾過し、それを自我に刷り込んでいく。現代の子供たちには、最初からこうした情報しか刷り込まれていないのだ。子供たちには、より低レベルの快感情報には殆ど心を動かされないほどの高感度の反応形成が、それ以外にない必然性によって常態化されているのである。

 そして彼らには、少しばかりの不快情報、例えば、家の中で一匹の蟻が動き回っている状態ですら許容限界を超えてしまうのだ。一匹の蚊の闖入(ちんにゅう)は、間違いなく、子供たちの集中力を破壊するだろう。かくも過剰なる、異物に対する拒絶的な反応形成を作り出した文明社会こそ、陰湿な虐めや告発社会の母体となっていくのである。
 

 
* 近代文明が私たちに保証した、過剰なまでに多様な選択肢は、私たちの差異化感情を方法的に充足させる何かではあるが、却って私たちの自我を疲弊させ、私たち自身を孤立化させてしまう負性的側面を随伴させている。

 そのような負性的側面を補償するために出現したテーゼが、〈共生の時代〉への志向であった。これは、「地球環境問題」という名の「エコロジー現象」の、俄ブームの如く見える目立った到来に対応しているが、そこでの「共同性」の本質は、相互扶助を軸とする、関係における「共生」への模索である。現代社会に雨後の筍のように誕生する各種の親和的サークルの現象は、何よりも、人々の共生感情の願望が集約されたものであるとも言えるだろう。

 人間の自我は、どこかで自己完結性を確認していないと生きていけない特性を持つと言っていい。始まりがあって終わりがあれば、それだけで人々は、その固有の人生を特定的に区切って上手に生きていけるのだ。これが、人々をして、スポーツや、各種の「道レジャー」に熱狂させる一つの心理的因子である。

 かつて山崎正和も書いていたが、私たちはスポーツに、疑似自己完結性を求めたのである。これは近代産業社会が、本質的に拡大再生産的なエンドレスの構造を持っているからだ。せめてスポーツや文化に、適正サイズの自己完結的な燃焼を求める他にないのである。

 「共生」の模索と、自己完結性への志向。そしてその泡立った状況下で、可能な限りの差異化を志向する。「共生」しつつ差異化を果たし、アイデンティファイし得る自己完結物語を貫徹する。これが、現代人の心象風景の平均的な様態であるだろう。



* 二・二六事件に代表される、「日本型闘争者」の殆ど宿命的な不幸 ―― 内実よりも様式、目標よりも手段、結果よりも動機、或いは、「結果良ければ、全て良し」というプラグマティックな心理文脈とも共存できてしまういい加減さ、更に、持続そのものよりも、持続を保証していくときの努力過程というものが、一つの自立的で、特化された価値を帯びるような文化を背景にしなければ、堅固な思想的基盤を持つことなしに精神主義を安売りする通俗性にまで下降する、その構造的文脈が理解できないだろうし、そこにこそ、彼らの不幸の源泉があったとも言えるのだ。
 




 

2008年12月24日水曜日


 【人生論的短言集】(画像はキルケゴール)


* ほんの僅かな情報で「善悪」を言い当てる。そこに羞恥を覚える自我の反応の度合いが「知性」の濃度になる。



* 「やってはならないこと」と「やって欲しくないこと」を峻別できない者に、相応の権力を与えてしまうこと。そこから人間の悲劇の多くが生まれる。



* 突入するにも覚悟がいるが、突入しない人生の覚悟というのもある。覚悟なき者は、何をやってもやらなくても、既に決定的なところで負けている。



* その精神が必要であると括った者が、それを必要とするに足る時間の分だけ、自らを鼓舞し続けるために、「逃避拒絶」のバリアを自分の内側に設定する。それを私は、「覚悟」と呼ぶ。

 できれば、その内側に「胆力」をも随伴させる必要があるだろう。「恐怖支配力」こそ、「胆力」という概念の本質であるからだ。



* 「肯定的なる批判精神の柔和なる表現」 ―― 私はそれを「ユーモア」と呼んでいる。 



* 自分のことを少しでも知る者から見透かされることの恐怖感 ―― それが虚栄心の本質である。



* 自らを知るということ ―― それは、自己の存在を理解する他者の心情をも把握するということである。自己の能力や感情傾向を把握した上で、その自己を認識する他者のその認識の許容範囲を正確に把握すること。それが正確に捕捉されれば、人は自らが冒す誤りの多くの部分を修復し得るであろう。



* 私たちは程ほどに愚かであるか、殆んど丸ごと愚かであるか、そして稀に、その愚かさが僅かなために目立たない程度に愚かであるか、大抵、この三つのうちのいずれかに誰もが収まってしまうのではないか。



* 「偉人」、「聖人」伝説の厄介なところは、目立たない程度の愚かさを持つ人間に対して、「完全無欠の物語」を被せてしまうという、まさにその愚かさに無自覚すぎる点である。



* 役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。



* 人間には、役割によって全てが決定されてしまうに足る完全な能力性など全く持ち合わせていない。人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではないということだ。いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに怠惰を晒すのである。

 これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、遂に支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。

 人間の自我能力など、高々そのレベルなのだ。私たちは相手の心までをも征服し切れないからである。ここに人間の自由の幅が生まれるのである。この幅が人間を生かし、遊ばせるのだ。



* 自分がいつでも他者に注目するわけではないように、他者もまた自分へのウォッチャーではあり得ないという風に、関係の中で自己を相対化できない自在性のなさにおいて、「過剰なる営業者」は飛び抜けて偏見居士である。偏見とは過剰なる価値付与なのだ。ここでは、関係の中での自己の存在を必要以上に価値付けてしまっているのである。



* 人から僅かでも嫌われるような事態を恐れるその自我の狭隘さは、他人の揚げ足を取らずにいられない偏狭なる一言居士と、恐らく、コインの裏表の関係を成している。その自己中心性と主観性、その偏見の度合いと傲慢さにおいて、彼らはいつも関係の深き森に潜むことが叶わないのだ。
 


* スマイラーや偏屈を通せないと、瞬(またた)く間に自己像が壊れると思っているのか。その自己像の破綻が、自らの社会的ポジションを揺るがすことに耐え難いのか。何かに捉われたようなその呪縛感には、自己を間断なく展開していかないと安寧を手に入れられないと幻想する頑なさが張りついている。この頑なさが、その特有の表現様態を突き上げていて、そこでの多忙さが、自らを内深く掘り下げていく系統的な地道さへの隘路となっているのだろうか。



* 人は最も辛い体験を語るとき、大抵、節目がちになる。究め付けのような羞恥や、深い悔悟の思いをダイレクトに炙(あぶ)り出してしまう表情を晒したくないからだ。堂々と自己顕示できない世界の中で人が呻くとき、人はその呻きの辛さを振り絞って吐き出して、なお吐き出して、それでも吐き出し切れない何かが、呻きの主体の自我を揺さぶって止まないのである。



* 日常性の裂け目の中からぬくもり(安らぎ)が作られる。ぬくもりの継続感を、私たちは「幸福」と呼ぶ。この継続感は、程よい心地良さで収めておかないと痛い目に遭う。少な過ぎるぬくもりより、過剰なぬくもりの方が性質(たち)が悪いのだ。ぬくもりで保護されすぎた人生には、ぬくもりの意識すら生まれない。「幸福」の実感も殆んど曖昧になってしまうに違いない。「想像の快楽」で遊ぶ余地が少ない幸福感の稀薄さ。人間的なものから遠ざかっていく怖さが、そこにある。



* 全ての不幸は不幸の現実からではなく、不幸であるという、自我なる厄介なものに張りついた集合的なイメージによって、いつも其処彼処(そこかしこ)に存在してしまうのだ。不幸という感情が不幸の全てなのである。



* タブーを越えても、吐き出したいだけのモチーフが崩れれば、大抵、予定調和の世界に入っていく。情愛をベースに結ばれた関係とはそういうものだ。



* 母の甘えと子供の甘えが程好く混淆されていて、何某かの衝突を収拾するであろう、和解に向かう関係の経験的なスキルの存在が、実に良く混淆された甘えを存分に生かしきっている。

 衝突は必ず、和解という予定調和に流れ込まねばならない。だから、衝突にも技術論が必要なのである。衝突の技術は、和解の不自然さを解消するのだ。母と子の、殆ど日常的な諍(いさか)いのゲームもまた、経験的な技術の勝利であった。



* ゲームの後の労(いたわ)りには嘘がない。母子は少しずつ傷つけあって、その度に労りあう。ゲームに免疫力が出てきて、関係の修復力は増強する。こうして少しずつ、目立たないように動いていくのだ。



* 普通の教育を受けた大人の自我に、少なからず、「あの素晴らしかった子供の世界に戻りたい」という願望が潜在するのは、第一に、自我の一貫性を保持したいという志向性であり、第二に、大人社会のストレス処理のためであるだろう。その意味で、私たちの「退行」は、大抵、「部分退行」であり、「方法的退行」である。いつでも日常性に還ってくる確かな航路が確保されていることによって、私たちは非日常的な「退行」を許容するのだ。

 
* 日常性はほんの少し更新されていくことで、自在に変形を遂げていく。それが日常性の基盤に組み込まれて、新しい秩序を紡ぎ出す。そこからまた新しい出口を見つけ出して、人々はそぞろ歩いて止まなくなるのである。



* 「私は充分に煩悶した」という自己像認知の内に、自らが繋いでいった物語を壊さない程度に、なお省察し、懺悔する時間を拾い上げていく限り、貴方の「良心」は繋がれたのだ。自己検証されたのである。それで充分であるという辺りで、貴方は常に計算しつつ、自己像の致命的な崩壊を防ぎ切っていくであろう。



* 「良心」とは、或いは、内に向かった攻撃性である。

 その攻撃性を実感し、自己了解することで、人は「良心」という甘美な蜜の味にいっとき酔いしれる。自虐することで得られる快楽に際限はない。イエス然り、聖フランチェスコ然り、トルストイ然り、ガンジー然り、嘉村磯多(かむらいそた)然りである。

 際限のない自虐の展開は、大抵、周囲の人間を巻き込んでいく。「良心」の呵責に苦しむ自我を他者に認知してもらいたいのだ。



* 人は自分を不断に告発し、断罪し、苛め抜くことによって、「ここまで責めたから赦しを与えよう」という浄化の観念に、束の間潜り込んでいく。それを私たちは「良心」と呼んでいるが、そこに、「自虐のナルシズム」という感情ラインが重厚に絡んでいる心理的文脈を誰が否定できようか。



* シフトすべき充分条件の澎湃(ほうはい)の中で、その機を逃したらもはや堪えられないという絶妙なタイミングのもとで、決定的に動くこと ―― まさにシフトすることで自分の中の何かが守られて、そこから何かが見えてきて、そして、そこを起点に動き出すであろう何かを手に入れるのだ。

 

* 私たちの内側では、常にイメージだけが勝手に動き回っている。しかし事態は全く変わっていない。事態に向うイメージの差異によって、不安の測定値が揺れ動くのだ。イメージを変えるのは、事態から受け取る選択的情報の重量感の落差にある。不安であればあるほどに情報の確実性が低下するから、情報もまた、イメージの束の中に収斂されてしまうのである。

 結局、イメージが無秩序に自己増殖してしまうから、不安の連鎖が切れにくくなるのだ。イメージの自己増殖が果たす不安の連鎖によって、いつしか人は、予想だにしない最悪のイメージの世界に持っていかれてしまうのである。最悪のイメージに逢着した自我が、そこで開き直る芸当を見せるのはとても難しく、そこに澱んで、自らを食(は)んでしまう恐怖から、一体、誰が生還できると言うのだろうか。
 
 

* 動いて危機を脱するという方法論は、全く無効であるとは思わないが、じっと動かずに、諦めることによって開かれる未来というものもある。

 迷って、迷って、迷い抜いてもなお決断がつかないとき、私の場合、「このままでいい」と思うことにしている。それもまた、一つの決断であるからだ。



* 【目標設定→ 状況分析→ 戦略・戦術 → 万全の準備 →総括・検証】―― この基本的な流れが合理的に進んでいくことによって、そこに一定の自己完結を結ぶとき、私はそれを「リアリズムの自己完結」と呼んでいる。

 とりわけ、困難な課題を主体的に引き受ける限り、何よりもリアリズムの視座によって、どこまでも冷徹に課題解決を図る必要がある。そしてその状況下で、課題解決が充分な達成をもたらさないと総括されたとき、そこに、「よりましな達成」を保証するような修復過程の介在が求められるだろう。

 その問題意識を持って、その過程を抜けていくだけのことだ。「よりましな達成」の獲得が、どれほど重要な意味を持つかについては、その過程に一定の自己完結を果たすとき初めて感受するだろう。



* 「天才の法則」、「天才もどきの法則」、「スモール・ステップ(SS)の法則」そして、「法則にもならない無原則な生き方」。人生のスタイルには、この四つがあると思われる。

 その腕力と、本来的な「激情的習得欲求」(ある女性脳科学者の言葉)に任せて、大目標に向かって直進する天才者と、その多くの追随者の激越な突破力と切れて、SS者の快楽は日々の自己完結感の達成にある。一つ一つの達成感の累積に生きられる、SS者のもう一つの強みは、目標を自在に変更できることだ。目標の達成がきつかったら、「今、このとき」の可能な目標に切り換えて、とにかく一つ抜け出すのである。 

 実現可能な目標への地道な行程を継続し切ったその向うに、より開かれた未来が待っていて、振り返ったら、軌跡がラインとなって浮かんでいる。少なくともこの生き方は、優先順位をミスリードしない堅実性において群を抜く。ここにも「もどき」がいるが、本物のSS者が一番強いのである。



* 「妬まず、恥じず、過剰に走らず」―― これを私は「分相応の人生命題」と命名し、肝に銘じているが、実際の所、「過剰の抑制」が一番難しい。

 側頭葉の扁桃核から前頭葉に走るA10神経は、多量のドーパミンを分泌しているがが、肝心の前頭葉にオートレセプターがないので、フィードバッグ機能が充分に作動せず、いつでもドーパミンが過剰に分泌されてしまうらしい。欲求実現や、等身大、またはそれを超えるテーマに関わる自己実現のプロセスの中で、どうしても「過剰の抑制」が成就しないのである。

 「分相応の人生命題」の日常的検証は、いつも少しずつ、適正確保の中枢からずれていって、脆弱な自我だけが置き去りにされてしまうのだ。それでもなお、自前の哲学に継続性を持たせたいと括る意識だけは安楽死していないようだから、せいぜい、内側の世界で「覚悟の一撃」を再生産していくことである。肝に銘ずべし。



* 愛、思いやり、優しさ ―― 勝手に読まれ、物語含みで増幅的にイメージされていくこれらの言葉から、人々は知らずのうちに重量感を失っていく。こうして言葉がゲームとして変換され、存分に消費され、遊ばれていくのである。



* 「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」―― 以上の六つの要件こそが、友情を構成する因子であると考える。いずれも重厚に脈楽しあって形成された心理的文脈であり、これら全ての要件が適度に均衡しあって形成された関係様態。それを私は「友情」と呼んでいる。



* 「秘密の共有」と「仮想敵の創出とその共有」 ―― これが、「友情」を「同志」に変えさせていくときの中枢的な情感コードとなる。



* 「教育とは自由の使い方を教えることだ」という名言を残したのは、「さよなら子供たち」(ルイ・マル監督)の中のジャン神父である。眼から鱗のようなこの名言の決定力は、最も厳しい時代を生き抜く覚悟なしに生まれなかった。

 覚悟こそが言葉を分娩し、そこに血流を吹き込んでいく。「自由の使い方」を喪失した時代の浮薄さが垂れ流す、ジャンクな言葉の氾濫 ―― もうそこには、「教育」という概念に命を吹き込むリアリティは復元しないのか。



* 「絶対の自由」への旅人には、相当の覚悟が求められる。

 第一に、路傍で死体になること。第二に、その死体が迷惑なる物体として処理されるであろうこと。そして第三に、一切がほぼ意志的に、一ヶ月もすれば忘れ去られてしまうこと。この三つである。

 即ち、一人の旅人から完全に人格性が剥(は)ぎ取られ、生物学的に処理されること。このことへの大いなる覚悟である。それは、「絶対の自由」に近づいた者が宿命的に負う十字架であるだろう。―― それでも貴方は、「絶対の自由」への旅に向かうのか。
 


* 「赦せない」という感情ラインと、「赦してはならない」という道徳ラインが結合すると、しばしば最強の「憎悪の共同体」を作り出す。これを法の論理で突破するのが困難になるとき、そこに死体の山が重なっていく。人間の歴史は必ずこれを内包するから、私たちの精神の僅かの進化が目立たなくなるのだ。そういう目立たないものでも守り続ける根気があるかどうか、それも知性のフィールドである。



* 「健康」、「老化」、「生活の質の低下」、「孤独」―― この四つのキーワードは、近代社会に呼吸を繋ぐ者の恐怖感と言っていい。この恐怖が老境期に集中的に襲ってくるのだ。

 貴方はそれに耐えられるか。

 老境期こそ精神的体力の強度が切に求められる、人生最大の正念場である。老境期は「生きがい」よりも、「居がい」の方が決定的に重要であるとも言われる。老境期に人生の頂点をもっていけるかどうか、そこに全てがかかっている。



* 「恥じらいながら偽善に酔う」―― このスタンスを崩さないことだ。

 束の間酔って、暫く恥じらい、そしてまた、昨日もまたそうであったような日常を、自らの律動で動いていくことである。酩酊を一定の流れの中で遊ばせて、その流れの中で清算し、その一部を明日の熱量に繋いでいけば、殆ど自己完結的ではないか。人は酔うときにも、その酔いに見合っただけの自己管理が必要なのである。
 


* 相手に不必要な心理的債務感情を与えることなく、本人がその対応に満足感を示し、且つ、その行為に外的強制力が媒介しないレベルの偽善を否定するほど、私たちは気高くはない。それが他者の眼にはどれほど胡散臭く見えようとも、そのことによって相手が手に入れるメリットの方が遥かに大きいならば、そのような善の遂行は全て良しと考えるべきである。



* 他人から見えないところに出口を確保したあと、人は己を巧妙に責め立てていく。抑制的で、計算された攻撃性に快楽が随伴するとき、それを「良心」と呼ぶことに私は躊躇しない。何のことはない。「自己嫌悪」とは裏返された自己陶酔なのである。



* 最高身体条件と最大集中力 ―― この二つが堅固に繋がったとき、人は自らに肉化された技術の出し入れの絶妙な時機と、その発現の完成度を目一杯高めあげていく。「自分十分、相手不十分」という磐石な体勢の中でこそ、一見、超絶的に見える技術の自在なる展開が可能になる。

 高度に計算された自我戦略の、瑕疵(かし)の少ない合理的な結実。その果てに、成功という名の報酬が待機している。



* プレッシャーとは、「絶対に失敗してはならない」という意識と、「もしかしたら失敗するかも知れない」という、二つの矛盾した意識が同居するような心理状態である。

 そのため、固有の身体が記憶した高度な技術が、ゲームの中で心地良き流れを作り出せない不自然さを露呈してしまうのだ。この二つの矛盾した意識が自我の統括能力を衰弱させ、均衡を喪った命令系統の混乱が、恐らく神経伝達を無秩序にさせることで、身体が習得したスキルを澱みなく表出させる機能を阻害してしまうのではないか。



* 河を渡ったことがない者に、河の向うの快楽は手に入らない。河を渡ったことのない者に、そこで得た快楽の代償の不幸にも捕捉されない。快楽を手に入れたいが、不幸には捕捉されたくない。そんな虫のいい者は永久に河を渡れない。せいぜい、河の向うの快楽を想像して愉悦するだけだ。河を渡れない者にとって、「想像の快楽」こそ最強の快楽なのだから。その決断も、時として誇り得る勇気であるに違いない。



* 覚悟なしに河を渡るものがあまりに多い。当然、報いを受ける。大抵本人は、その報いを自分の内側の深い所で受け止めない。だから多くの場合、人のせいにする。人のせいにするから、いつだって貧困なる人生のリピーターになるのだ。



* 見てしまわない限り、そこには何もない。

 大抵の不幸は、見てしまった後からやって来る。初めのうちは輝きの微笑を放っていたものが、やがて色褪せて、遂には煉獄の淵に立ち竦む。立ち竦んだとき、人生の何が見えたか、何が見えなかったか、あまりに様々である。それでも湿度の高い時間を濃縮したような、決定的な人生のゲートがそこから開かれるなら、貴方は決して高い買い物をしなかった。

 見てしまった限り、貴方はそこを突き抜けていくしかない。
 見てしまった限り、貴方はもう戻れない。見てしまうことに、如何に覚悟が必要だったか。大抵の人がそのことを知るのは、いつも見てしまった後なのだ。



* 「今の若者にはついていけない」、「今の世の中は最悪だ」、「将来が嘆かわしい」などという類の、大抵の人々の普遍的物言いの趣味の裏側には、昔を懐かしむだけの、「あれはあれで良かったのだ」という思いが、いつも少しずつ寝そべっている。

 老化する一方の自分の周囲を囲繞する、様々なる快楽装置への違和感と嫉妬感を無化するためには、多くの場合、このような簡便な文脈的括りが求められるからである。



* 仮想敵を持たない青春が最も憐れである。

 その暴走を喰い止めてくれる壁もない。微温ゾーンをゲームが駆けていく。骨格の脆弱な他愛ないゲームと化した青春が、其処彼処に舞い踊る。仮想敵にならねばならない何ものかが、ゲームを煽動するのだ。

 かくして、言語の切っ先が苛烈に先導した一切の青春論は息絶えた。人生論も息絶えた。そこに、過剰なまでに「察し」を乞う、「幼形成熟」の如き、予定調和的な依存型のゲームだけが生き残された。



* 青春の尖りには二種類ある。
 一つは「自己顕示」であり、「自己主張」であるが故の尖り。もう一つは、「自己防衛」としての尖りである。

 前者の尖りは青春そのものの尖りであり、まだ固まっていない漂泊する青春が、その内側に蓄えてきた熱量が噴き上がっていくときの、「怒りのナルシズム」である。
 それは青春が初めて、その怒りを身体化させていくに足る頃合いの敵と出会って、その前線で展開されるゲーム感覚の銃撃戦を消費する快楽であるだろう。

 従ってそれは、そこで分娩された快楽を存分に味わっていく過程で、自我を固有な形に彫像していく運動に収斂されていくので、その運動が極端に規範を逸脱しない限り、一種の通過儀礼としての一定の社会的認知を享受すると言っていい。青春を鍛えるには、それが鍛えられるに相応しい敵対物が求められるからである。敵対物の存在しない青春ほど、哀れを極めるものはないのだ。漂泊する青春を過剰に把握し、その浮薄なる「既得権」を必要以上に守る社会が一番劣悪なのである。



* 守るべき者がその身に負った過大な重量感が、そんな青春をしばしば苛酷にする。そこには、ゲームが支配するガス抜きのルールが存在せず、青春の尖りは険阻な表情を崩せないでいるに違いない。それ以上追い詰めてしまうと、青春という液状の自我が、社会のどのような隙間からも一気に流れ去ってしまいかねないような充分な危うさを抱え込んでいるのである。

 従って、その自我が必死に防衛しようとするものに、許容値を越えた劇薬が含まれていない限り、社会はその尖りに、寧ろ同情的であっていい。潮目の辺りで、我が身を乗せる流れにしがみつく青春にこそ、救命ボートの一艘くらいは差し向けられてもいいのである。しかしそんな青春に限って、我が身を守るはずの攻撃的な棘によって、しばしば痛々しいまでに自傷してしまうのである。
 


* この国の若者たちは、長期にわたるモラトリアムの漂流の中で、本気で覚悟を括って「内こもり」を延長し得るのか。

 「突破し切れない状況」を既成事実化することで得られる相応の快楽よりも、世界に繋がり得る等身大の自己の宇宙の構築への艱難(かんなん)だが、それ以外にないと信じる時間に向かって、ほんの少し、その身体を匍匐させようとは思わないのか。そう思うからこそ苦悶し、そのジレンマの中で却って動けなくなってしまう心理はとても理解できる。

 それでも、敢えて言いたいのだ。

 もし思うなら、件(くだん)の若者たちはそれを身体化すべきであると。ほんの少し、その身体を匍匐(ほふく)させることで何かが変わり得るかも知れないのだ。何も変わらないと嘆いて、自分のその匍匐の空虚さを感受するなら、「動いたけどダメだった」という類の、格好の逃走方略を手に入れられるではないか。それは自分の非行動の、厄介な負の連鎖に呪縛されていた気分をもっと悪化させてしまう可能性があるが、「少しでも動いた」という記憶が、「動けなかった身体」という負の情報に捕捉されたその心の冥闇(めいあん)を、もしかすると、ほんの少し払拭してくれるかも知れないのである。

 動きださなかったら、怪我をすることすらできないのだ。その逃走方略が、逆にその者の心をいよいよ泡立たせていって、その騒がしさの中で、何かが変わっていくかも知れないのである。「少しでも動いた」事実の身体感覚を知るには、「少しでも動いた」という実感の中にしか拾えないのだ。変化とはそういうものである。



* 偏見とは、特定なものへの過剰なる価値付与である。価値の比重が増幅される分、公平な観念が自壊している。想像力の均衡が自壊している。その分、教養のレベルも自壊しているだろう。



* 自分が嫌う相手を自分と一緒に嫌い、自分と一緒に襲ってくれる者を人は「仲間」と呼び、「味方」とも呼び、しばしば「同志」と呼びさえもする。この「仲間」たちと共有する一体感は、感情が上気している分だけ格別である。

 そこでの歪んだ「集団凝集性」の異様な高揚の中で、リスキーシフト(集団の中では言動が極端になりやすいこと)が其処彼処で顕在化し、もうそれは、極上の快楽以外の何ものでもないのだ。



* 「確信は嘘より危険な真理の敵である」―― これは、「人間的なあまりに人間的な」の中のニーチェの言葉である。「確信は絶対的な真実を所有しているという信仰である」とも彼は書いているが、それが信仰であるが故に、確信という幻想が快楽になるのだ。

 例えば、人がその心の中で大きなストレスを抱えていたとする。そのストレスは自分にのみ内在すると確信できるものなら、基本的に自分の力でそれを処理していく必要が出てくる。ところが、そのストレスが自分にのみ内在するものではなく、自分を取り巻く環境に棲む者たちに共通するものがあると感じ、且つ、そのストレスを惹起させる因子が外部環境に大いに求められると感じたとき、人はそこに、しばしば他者との「負の共同体」と呼べる意識の幻想空間を作り出す。そのとき、自分の中の特定的イメージがその幻想空間に流れ込んで、それらのイメージが一見整合性を持った文脈に組織化されることで、そこに集合した意識の内に「確信幻想」が胚胎されてしまうのである。



* 人は確信を持ったとき、全く別の人格に自らを変容させる能力を持ち得るのだ。その現象が、「ドイツ」という巨大な自我の坩堝(るつぼ)の中で急速に検証化されたとき、もう彼は、「政治こそアートである」という幻想の命題に逢着してしまう以外になかったのである。そしてその屈折した観念の行き着く先は、「憎悪の共同体」であった。そのとき「負の共同体」は、「憎悪の共同体」として、「ドイツ」という自我を勇壮に立ち上げてしまったのである。

 「アドルフの画集」(メノ・メイエス監督)という傑作の中で描かれた、あのオーストリア人の話である。



* 人は何故、告白手記を書くのか。

 自分の正当性を訴えたいからである。仮想敵の正当性を毀(こわ)したいからである。取るに足らない正当性を奪い合うためのちっぽけな前線の確保―― ある種の人間は、そこに貴重な活力源を汲み取って止まないだろう。このような卑小なゲームに真剣に取り組むことができるのも、人間の歪んだ意志の一つだからである。



* 「今の若者にはついていけない」と言わねばならぬ人々は、充分に過去に繋がっている。そのように言われ続ける人々は、充分に未来に繋がっている。ほんの僅かな時間の誤差が、その時代に輝いていたに違いない価値観に弄ばれているのだ。

 恐らく、悠久に続くだろう手垢のついた幻想も、その時代にしか生きることが叶わない人々には常に正当であり、存分に快適だからである。



* 血を吐く辛さの手前で、さっと引き返すことができる辛さ。このような辛さは本質的にゲームである。しかし、人生に彩を添えるゲームでもある。こんな小さなゲームの殆ど予定調和の経験則によっても、魂を鍛える何かになるからだ。



* 負けて泣くことが赦されるかどうか、しかもその事が、観る者に感動を与えるかどうか ―― それがスポーツのメンタリティの次元における、プロとアマの違いの一つである。



* 生とは死である。良き生とは良き死である。良き死とは臨終に際し、自分が何者であったかを知るものである。良き生とは、何者かであるはずの個我に辿り着いたか、或いは、辿り着く何かを知ることである。



* カナダ極北に住むヘアーインディアンは重篤な疾病に罹患したとき、呆気なく死んでしまうケースが多いと聞く。これは彼らに、生命の継続を念じる強い意志が相対的に欠落しているためでもあるが、それに加えて、彼らの固有の輪廻思想が介在することで、彼らの中で死への恐怖感が削り取られている事実が持つ意味は大きいだろう。

 このような独特の物語を保持することで、彼らの生命の永遠性が保障されるのだ。だから彼らの中では、「まだ死にたくない」という振れ方をする自我の、その本来的な生存戦略に固執する理由が中和化されてしまうのである。

 それもまた、人間の自我が作り出した高度な知恵の結晶であると言える。それは、より長く生きることよりも安寧な死への着地点を確保することの方が、自我のダメージが少ない戦略でもあるからだ。



* 迫りくる死の観念に搦(から)め捕られるとき、紛う方なく人は生きている、弱々しくも、人は生きている。その観念が自分の自我のみを苛烈に揺さぶる理不尽な思いの中で、人は生きているのだ。「死の絶対性」が観念を荒らし尽くし、甚振(いたぶ)って、そこに自分だけが世界から取り残されたような不条理な心境下で、人は「絶対孤独」としか形容できない世界を垣間見てしまうのだ。



* 「孤独の絶対性」―― それは、人間が「私の死」のみしか死ねない絶対的な真理であり、それが常に自分の観念を暴れ回ってしまったら、人はもうそれ以外の「死」を死ねない現実を、まさに「私の生」の実在感の中で捕捉してしまうのである。

 この観念の暴走が、「私の生」の実在感の中で出来してしまうので、私は、「今、ここに存在することの大いなる不快」に耐えねばならない。耐えて生きていかねばならないのだ。この「孤独の絶対性」に耐えていくことがあまりに辛いから、多くの場合、人は「今日という一日を、一生分の重みとして完全に生き切る」ことで、何とかそこに一縷(いちる)の曙光を見出すのである。まさに、「死は生の一部」なのだ。
 


* 「良き老い」とは、遠ざかったり、近づいたりすることでも、喪ったり、手に入れたりするような何かではない。自分がこれまで集めて来た数多のジャンク情報の中から、臨終に向かって、最も重要な情報だけを選択することを明瞭に認識できるステージに登ったときの、ある種の苛烈な血のフィールドである。少なくとも、そのフィールドの中に、「良き老い」の意味を解く全てがある。

 人は捨ててこそ届くのか。



* 恐怖は憎悪によって、楽々と超えられる。しかし時間を超えてきた憎悪は、爆轟(ばくごう)のような圧倒的な何かによってしか超えられない。恐怖を楽々と超えてしまう憎悪を空間で中和するのは、爆発して粉々になるほどの覚悟しかないのだ。

 そんな覚悟で危機に入れるか。危機を抜けられるか。



* この困難な時代において求められている精神は、自分を守り、家族を守り、そこで成し得る限りの武装を完備し、状況突破の攻勢を仕掛けていく逃避拒絶としての「覚悟」と、恐怖支配力としての「胆力」であるに違いない。それこそが、困難な状況を突き抜けていく最も強力な自己武装となるであろう。  



* ごく特別なケースを除けば、何某かの形を持つ私たちの「生き方」は、「趣味」という概念で説明できると言っていい。同時に、その「死に方」も「趣味」であるだろう。そこに出来る形は、「趣味」が開いた形である。それらの形の枝葉末節について様々に価値付けるのは、恐らく、最も愚昧な「趣味」であるに違いない。だから彼らは、「死の美学」なるものに拘ってしまうのか。

 一切は趣味の問題なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。



* 社交を趣味とする者に、それをさして趣味としない者が社交によって反応するときほど、覚悟が必要なときはない。覚悟がないからしばしば、同じ土俵に上れない辛さを糊塗(こと)するかの如く、相手の悪口を不毛なまでに撒き散らす。そのような愚行に走る前に、貴方はもっと考えるべきであった。貴方の求める社交の本質がどこにあったかを。



* 昨日と同じ辛さを恒久に生きる者に、投げかける言葉などない。投げかけられる言葉もない。所詮、私たちの身体化された如何なる表現も、件(くだん)の者の辛さの深奥には届かないのだ。それでも貴方が心理的共存を捨てられないとき、貴方は貴方の、その辛さをこそ生きていけ。なお生き切って、そこで拾ったイメージの畔を漂流せよ。人の心の、果てしない闇の世界の只中に辿り着いたと幻想するイメージの畔で、他の何ものにも代えがたい、貴方の苦悶をこそ苦悶せよ。



* どんなに世界が変わっても、どれほど時代が移ろっても、自分の身勝手さと愚かさに恥じない者たちが必ず輩出する。人間の歴史の中で、これだけは絶対に変わらない。時代や社会の問題に還元できない彼らの愚かさは、その者たちが本来的に持っている愚かさであるが故に、その者たちの環境が少しばかり好転したぐらいで簡単に変わったりしないのだ。

 従って、その者たちと関わった不幸なる者たちの人生は、そこにどれほど悲哀を極めても、同情の限りでしかないのである。この不幸にヒットした対象が子供であれば同情を禁じ得ないが、しかし哀しいかな、その子供の人生を好転できない環境が、そこに絶対的に存在するとき、私たちは彼らの不幸をただ憐憫し、嘆息するしかないのだ。



* 恋愛を無邪気に語る者は、酔うことができる者である。酔うことができる者は、酔わすことができると信じる者である。人を酔わすと信じるから、語る者は語ることを捨てない者になる。語ることを捨てないことによって、語り続けられることを信じる者になるのだ。



* ある意味で愛情とは受け取る愛であり、情愛とは届ける愛である。関係が成熟するとは、それらがバランスよくキャッチボールされたものである。現代は情愛より愛情の方に大きく振れている。渡すよりも貰う方ばかりが気になって仕方がないのだ。



* 恋する相手の人格性から「日常性」と「身体性」を剥ぎ取ること ―― これが「恋愛幻想」の基本的イデオロギーである。それ故、片思いの恋情を断ち切るために、私たちはしばしば、この手強い幻想破壊の世界に踏み込んでいく。

 「平中物語」という平安時代の古典の中に、片思いの相手を忘れるために、相手の大便を盗んで臭いを嗅いだというエピソードがある。ところが、あろうことか、その糞便が芳しき香水の臭いを放ち、ますます相手が忘れられなくなったという滑稽譚の落ちがついてしまった。主人公の平中にとって真剣そのものの振舞いを笑うのも気が引けるが、この逸話が「恋愛幻想」の強(したた)かを象徴するものであることは否定しようがないだろう。

 ゲームとしての恋愛の醍醐味は、「恋愛幻想」を崩すことで自我の安定を図ろうとする、際立って人間学的な営為をも網羅して、常に変わらぬ人の世の普遍的なる振舞いを検証し続けていくのであろうか。



* お互いの愛が確認されてからは、恋愛はピュアなゲームであることを止める。スタンダールの言う「第二の結晶作用」の始まりである。

 男と女の自我が、このリアルな時間の中で、一気に解放されてしまうのだ。罵り合い、泣き叫びながらも、最後は肉欲の交歓によってあっさり鞘に収まってしまったりもする。フーテンの寅さんが逃げ出した世界は、解放された裸の自我が直接的に交錯するダイナミズムの中で、揉(も)まれつつ成熟を果たしていく、最も人間的な世界なのである。そして数多の恋愛物語は、ここで終焉する。それ以後の世界は「家族愛物語」に収斂されて、恋愛が殆ど絶え絶えになってしまうからである。

 「蜻蛉日記」(藤原道綱の母)が下巻に入った途端、突如として夫(兼家)への非難のトーンがダウンしたのは、恐らく、作者の夫への恋愛感情が消失し、その分、充分に成熟した息子(道綱)との間に「心の共同体」が堅固に構築されたからであろう。そのことによって、作者(道綱の母)の自我の安定が確保されたからではないか。即ち、「蜻蛉日記」の作者は、貴族社会における一夫多婦制下にあった「夫への恋愛物語」を、「息子との母子愛物語」に読み変えることで、自らの自我の拠って立つ根拠をシフトすることに成就したのである。その時点で、既にかつての恋愛ゲームの華麗な物語の残り火は、すっかり焼尽してしまったということだ。



* アンデルセンは、片思いの恋人(ルイーゼ・コリン)に読んでもらうために自伝を執筆し、それを出版した。その中で自分の数奇な遍歴を誇張し、努力家としての自分のイメージを必死に売り込んだ。しかしルイーズから手紙を送り返されて、嘆くばかりだったと言う。

 同様に、大失恋の憂き目にあったニーチェは、今度は逆に、恋愛を野蛮な行為であるかのように書き散らしたのである。

 「ただ一人への愛は一種の野蛮である」、「決して一人の人間に恋してはならぬ……すべての人間は牢獄であり、片隅である」(「善悪の彼岸」)等々。

 終生独身で通したアンデルセンもニーチェも、恋愛ゲームの手痛い挫折者であるが故に、その物語を相対化するために、別の物語への昇華を図ることによって、ゲームの果ての悲惨な末路を克服しようとしたのかも知れないが(アンデルセンは30歳のとき、ロマンチックな芳香の漂う「即興詩人」を書いて一気に世に出た)、実の所、二人の例もそうであったと思われるように、このように恋愛ゲームに関わる私たちの自我の苦闘は遥かにどろどろしていて、だらしなく、優柔で、まるで締りがないというのが実相である。

 「卒業」、「いちご白書」とか、「幸せの黄色いハンカチ」のような劇的な恋愛は、殆ど私たちの実人生とは無縁であって、その情念のリズムは、寧ろ「オペラ座の怪人」の世界に近いと言える。相手との交歓を通して獲得した喜びや哀しみ、感動や苛立ち、憤怒、憎悪の全てを、私たちの自我が無残なまでに記憶してしまうからである。

 従って、「失恋の王道」を含む恋愛に関わるゲームの多くは、私たちの一種の通過儀礼とも言うべき、その曲線的な自我成熟の、格好のトレーニングタームとなるべき何かであると考えた方が無難であるだろう。




* 禁断の愛は、堅く封印された扉を抉(こ)じ開ける愛である。その扉を抉じ開けるに足る剛腕を必須とする愛、それが禁断の愛である。

 そして、その扉を抉じ開けた剛碗さが継続力を持ったとき、その愛は固有なる形をそこに残して自己完結する。そう思うのだ。

 果たしてそこに侵入する魂に、その愛を自己完結するだけのエネルギーを持ち得るか。扉を抉じ開ける剛腕さと、その愛を継続させる腕力は別個の何かである。一回的な剛腕さが継続力を持つには、その時間を保証するに足る極めて難度な能力を必要とするだろう。

 果たして、人はそれを持ち得るか。

 時間を継続させるエネルギーが充分に用意されても、それを上手に駆動させるには、腕力や体力のみならず、そこに、それらの魂にとって殆ど未知なる膨大な精神力というものが求められるのだ。禁断の愛の大胆な飛翔の継続は、それほど困難な何かなのだと思う。果たして、誰がそれを持ち得るか。




* 禁断の愛の継続は、単に、その継続を妨害しようとする者たちとの果敢な闘争の持続力を意味しない。寧ろ、それを妨害しようとする力が大きく作用するほど、そこに防御しようとする者のエネルギーの再生産が可能となるだろう。禁断の愛は、それを妨害する様々な因子が絡みつくほど、却って、その愛の継続力を保障する方向に向かっていくのである。

 多くの場合、禁断の愛の破綻は内側から惹起され、肥大していく。

 それは防御するエネルギーの枯渇によってではなく、それを固めて、そこに新しい価値を創造していくエネルギーの不足によって起こると言っていい。



* それほどまでに危険な愛を、なぜ人は目指すのか。それを手に入れようと、なぜ人は時には命を賭けるのか。簡単である。それが禁断なる愛であるからだ。

 禁断なる愛は魔性の愛なのである。魔性の愛はその内側にたっぷりと蜜を含んでいて、その香りに誘(いざな)われし者たちが、次々と飽きることなく、そこに魔境を作っては壊していく。その魔境の継続力の不足によって自壊するのだ。

 禁断の愛は壊れるのに易く、そこを突き抜けて王宮に辿り着くのは極めて難しい。それでも懲りない人々のラインがどこまでも続いていて、途絶えることはない。魔性の蜜の香りの起爆力の激甚さは、そこに集合する様々な因子の劇薬性に因っている。視覚的に際立った一つの愛に禁断の印をつけて、それを厭悪(えんお)し、排除しようとする因子こそ、禁断の愛を、底が突き抜けるような魔性の愛に変えてしまうのである。



* 駆け落ちの愛がようやく辿り着いた桃源郷に、既に禁断の印が風化して、そこに自由な往来が可能になったとき、その愛はもう世俗との遮蔽物を失って、現実原則的な秩序への同化のみが求められる。そこに至って、一切の幻想が消滅し、関係もまた急速に破綻へと向かう外ないのである。禁断の愛は、畔で漂流しているときが一番美しい。一番燃え盛る。一番輝きを放つのだ。
 


* 日常性を劇的に更新していく力というものが、男女の愛には確かにある。それは魔力ですらある。しかしそれはしばしば、個々の自我が刻んだ捨て難い航跡を破壊する力をも持つ。時間の連続性が済し崩しになる不安に、自我は耐えられないのだ。

 禁断の愛の魔力は、その禁断性によって圧倒的なパワーを持つ。しかし、そんな自我の堅いガードに弾かれて、私たちの多くは魔境の杜を抜けられず、体温を奪われて、晒されて、震えながら日常性に立ち返ってくる。私たちの日常は、その体温が維持される条件の下で更新され続け、時間を繋いでいくのだ。日常性の破壊的更新という魔のカードは、私たち庶民の生理に相応しくないのである。繰り返し書くが、やはり禁断の愛は、畔で佇んでいる風景が一番似合っている。
 


* 幻想の崩れは、いつでも呆気ない形でやって来る。

 過激に立ち上げられた関係ほど、その崩れはだらしない。援助の貧困が愛の貧困に流れていくと、出口をも持たない愛は一気に自壊する。百年の恋が醒めてしまうのである。愛を最後まで支え切る「援助感情」だけが、関係の中枢に、それを失いたくないものの根拠を自給するだろう。

 遂に深化を果たせなかった援助の貧困は、いずれ訪れるだろう感情の自然な鈍磨の中で、関係の生命力をじわじわと奪い取っていくのである。



* 援助に向かう感情の強さは、それを乞う感情の弱さの中には入れない。向かう感情は、乞う感情のその強さの分だけしか入り込めないのだ。愛の実感は、いつでも反応の微妙なクロスの中で刻まれるからである。二つの感情の濃度の目立った落差はあまりに危ういのである。感情の濃度が均衡を保てなければ、溶融し切れない感情が沈殿してしまうのだ。「援助感情」には常にバランスが必要なのである。



* 女はその人生の中の時間を特定的に切り取って、それを享受する能力において、概して男のそれよりも少なからず勝っているであろう。だから女は強いのだ。だから男は、常に女に勝てないのだ。男は自我に頼りすぎる傾向が強いのである。そこに身勝手な大義名分が張り付いていないと、男は女の肌と遊べないところがあるのだ。

 それに対して、女は自我抑制力とは無縁な世界で、堂々と情動系を解放することが可能であるだろう。少なくとも、男の抑制系よりも、女のそれは遥かに自在な振れ方をする。そこに倫理的に正当化しなければならない文脈を必死に求めるような、面倒臭い作業を回避する能力において、女は特段に優れていると言えるのではないか。



* 心が苦しいとき、人はのた打ち回る以外、何ができるのか。苦しいときは、苦しみ抜くしかないのだ。苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて、それで果ててしまったら、それはそれで仕方ないのだ。それだけの覚悟をもって、人は苦悩に入れ。苦悩の旅に予定調和はない。行ったら、抜け切るしかないのだ。そんな苦悩の旅で、人は一時(いっとき)小休止してもいい。心の辛さに、ほんの僅かな余裕を与える努力もまた無駄ではないのだ。



* 悶絶の極みのとき、人は孤独を知る。悶絶の極みにある者にかける言葉もない。人は大抵、上手に距離を置き、上手に去って行く。去って行けない貴方だけが苦悩者に寄り添うのだ。しかし、そこに何も開かれない。それしかないのだ。貴方は苦悩者の辛さを癒しきれない貴方なりの重量感をもって、その場を去って行く。残された苦悩者だけが、実存の重さを単身背負っていくしかないのだ。

 もう声を出すな。もう走るな。周囲を見回すな。悶絶の地獄へ堕ちていけ。そして運が良かったら、地獄に咲く一輪の花を見つけ出せ。そこで、芳醇であると信じたい小さくも、「今、このとき」だけは確かに救われるだろう世界を、己が世界とせよ。



* 人の不幸を尋ねて同情の素振りを見せる数分もしない間に、その同情者は不幸に喘ぐ者に聞こえるような大声で、世俗的な馬鹿話を繰り返している。これが人間なのだ。

 自分に無縁な人の不幸を世俗話のネタに出来てしまう程、私たちの想像力は、良くも悪くも愚昧さの極みを晒して見せる。結局、自分がその不幸の当事者にならない限り、悪意なき饒舌者の口を閉ざすことにはならないようだ。人間は自分の「生命→安全→愛情」の砦さえ崩れなければ、ゲームの世界しか生きられないのだろう。



* 「君の現実が悪夢以上のものなら、誰かが君を救える振りをする方が残酷だ」―― この言葉は、「ジョニーは戦場へ行った」(ドルトン・トランボ監督)の中で、一切の自由を奪われた主人公が、その残酷極まる悪夢で語られた、イエス・キリストの決定的な一言。

 映像のジョニーがそうだったように、尊厳死以外の選択肢が存在しないとき、その意志を持つ者に関わる全ての者は、そこでの関係的存在の根拠が一気に崩れ去る。

 人間は残酷なのだ。

 時には、その残酷を受け入れねばならない存在性を晒してしまう。それもまた人間なのだ。人間は、他者の死をそのような形でしか受容できない存在体でもあるということだ。



* 「心の中で僕は喚き、叫び声を上げ、罠にかかった獣のように吠える。だが誰も関心を持たない。腕があれば自殺できる。脚があれば逃げられる。声があれば話をして慰められる。助けを叫んでも、誰も助けてくれない。神さえも・・・ここに神はいない。こんな所にいるはずがない。そして・・・それでも、僕は何かしなければならない。なぜなら、このままの状態ではいられないからだ」―― この凄惨を極めたジョニーの言葉が、映像を括る最後の言葉となった。

 「それでも、僕は何かしなければならない」という言葉の持つ重量感を、共有すると信じる者が、今、ここにいて、なお呼吸を繋ぐとき、映像の世界を突き抜けて、そこにもう一つ、綻びかけた「覚悟の一撃」が括られていくだろう。



* 「人生」が成立する、四つの要件 ―― それらは第一に、「人生」を営む主体としての人格であり、第二に、その人格が展開する表現空間、第三に、そこで展開された表現を記憶に繋いでいく時間であり、そして第四に、その人格が、別の人格との間で何某かの関係を繋いでいく社会性である。

 即ち、「人生」とは、固有の人格が固有の時間の内に、社会的繋がりを視界に入れて、特定の空間で展開される固有の表現的営為であると言えるだろうか。

 「それでも、僕は何かしなければならない」と呻きつつ、「絶対孤独」の闇に屠られていくジョニーに、果たして、「人生」と呼び得る何かが成立したか否か。言うまでもなかった。



* 人間は自己に関わる固有の物語を持ち、更に、自らが拠って立つ精神的基盤を他者と共有するときの心地良さによって、その物語が前者の物語を補完的に強化されたならば、誇るべきものが自我の内側に強固に張り付く幻想に酩酊し得る分だけ、限りなく力強く生きられるだろう。幻想なしに人間は生きられないから、その幻想が他者と深々と共有しているという実感によって手に入れる快楽は、何よりも代え難い絶対的価値によって存分に担保されてしまうのである。



* 人間の存在とは、常に身体を効率的に転がしていく自我が確信的、又は非確信的に状況を作り出してきたか、それとも、その時々に捕捉されてきた状況に如何に対応してきたかについて、それ自身のうちに刻んできたその軌跡の集積の様態であって、その軌跡から特定的な情報のみを、恰も、それが一つの価値の検証であるかのように抽出したり、或いはそれが、存在総体の負性価値を表出するものとして摘出したりすることが表現的には可能だが、しかし、そこでの自我の振れ方が極めて恣意的な様態を示すから、その自我の本来的な性格が包み隠さずに炙り出されていくのである。
 


* 「自分が今どこにいて、自分が今、何によって満たされているのかという命題に対して、上手に表現できなくとも、自分なりの確かな解答を身体提示できるような実感」-― これが「生きることの意味」の内実である。

 この実感の継続が、人々の幸福の稜線を未来に繋ぐ絶対的な何かであると思われる。それ故、「生きることの意味」を特段に意識することなく日常内化している者こそ、声高に叫ぶことのない幸福の稜線を自己実現している者であるだろう。自分がイメージし得る未来に対する不安感を媒介することがないからこそ、敢えて過剰な蕩尽への身の預け方を回避できるのである。



* 内気さとは、壊れやすさと言っていい。壊れやすいが故に物語を矮小化し、その狭さの中に自己顕示と自我の安寧を確保する。物語のサイズを小さくすることで、悪意に満ちた他者からの侵入経路を未然に防いでいくのである。物語に隙間を作らないことで、他者の悪意の侵入し難さを堅持するのだ。

 壊れやすい自我が作る物語は、できる限り、それを壊れにくいものにする必要があるだろう。隙間だらけの大きな物語が内包する壊れやすさに比べれば、自我の耐性に見合った分相応なスモールサイズの物語は、日常的な自己完結を保障できる分だけ壊れにくいからである。



* いつまでも胸の奥の深い辺りに、X線でも捕捉できない繊維のような棘が刺さっていて、普段は意識の表層を目立って騒がせることもなく、その不定形の律動を伝える微塵の波動もないが、しばしば名状し難い思いが噴き上がってきて、内側をひどく騒がせる時間に拉致されるときなどに、その繊維の棘の存在感に不思議なほど親和力が働いてしまうことがある。

 何かの拍子で、内側の秩序を暗い記憶の粒子が噛みついてきて、時間を仕切る帳(とばり)を壊してしまうのだ。繊維の棘の不定形なる律動は、そこで開かれたイメージの宇宙を遊弋(ゆうよく)し、何か終わりの見えない自虐のゲームから、ズブズブの感傷を拾い上げることを止めないようなのである。

 私はそんなとき、思い切ってゲームにその身を預けてしまった方がいい、と括った者のような構えで、そのほんの少し危ない世界に這い入っていく。その方が合理的でもあり、つまらない感傷を却って引き摺らないで済むからだ。



* ここに、一つの踏み込んではならないゲームがあるとする。

 五人の親友のグループが無人島に漂流した後、四人乗りのボートを手に入れた。彼らの一人が、「自分が一緒に同乗したい者の名を書いていって、最後まで名前を書かれなかった者が一人出るまでゲームを続けよう。その者だけを島に残そう」と提案した結果、最後の一人があっさりと判明してしまった。残された一人が味わった感情の中に、孤独感の本質がある。

 孤独感とは単なる寂しさではない。精神的な喪失感と、それが継続することへの不安感。そこに孤独感の怖さの全てがある。



* 人は喜びを分ち合える友がいなくても、その喜びの分だけ生きていけるが、悲鳴を上げられずにいられない者が、その悲鳴を聞いてくれる者がいないときの辛さに果たして耐えられるだろうか。魂の叫びを誰も拾ってくれない孤独に耐えられる、極北の生き様を走り切れるか。

 心を病むことなく、堂々と、その孤高の稜線を上り切った者を私は知らない。人の自我には、それ程の跳躍力が備わっていないのだ。

 結局、我々はいつもどこかで少しずつ喰い合っていくしかないのである。 人は鬼にもなれば、仏にもなる。人を喰って生きる者もあれば、自らを餌にしてしまう者もいる。影にもなれば、光にもなる。撒き散らす不幸もあれば、拾い集める快楽もある。

 一切の生き様は、それぞれの人間の趣味の問題でしかない。自分の趣味の悪さを人のせいにすることはできないのだ。



* 辛いだけの人生を送る者は、益々、死のリアリティを招き寄せる。快適なだけの人生を送る者は、いよいよ死のリアリティから逃避する。死のリアリティを招き寄せて、遂にそれに掴まってしまう者は、死のリアリティから逃走した挙句、大往生を遂げる者の人生に対して、果たして決定的に不幸であると言えようか。

 死のリアリティを招き寄せる、その瀬戸際で勝負をする者が、いつかその勝負に負けるときがあっても、勝負の日々が彼らの人生に残した究極性において、彼らは抜きん出ている。彼らの何人かは、究極の人生に届き得たかも知れないのだ。しかし彼らの発した呻きだけは、余人の到達できぬ世界を駆け抜けたに違いない。



* こうすればそれが防げるという手立てが全くないとき、人は既に地獄の中にいる。

 石を積んでも、積んでも、なおそれが壊されてしまう地獄から脱出できなかったとき、貴方はどうするか。貴方の反応はやがて衰弱し、無気力な世界を広げていく。自我が秩序を作れずに、大狂気への逃走を図っていくしかないだろう。

 どれほどつまらない夢や希望でも、それが欠片ほどに存在するだけで、人は生きていけるのだ。快楽の本質は、それが達成されたときの喜びになく、それに向かって行進できる過程にこそある。この「プロセスの快楽」の醍醐味に生きられる人生をこそ失ってはならない。



* ほどほどにあるが、充分にない。充分にないことへの認知が、充分にあることへの思いを開かせるのが自我の欠落感覚である。欠落感覚が常に僅かずつ残されるから、人は自らのために動こうとする。動くことで、対象との関係が測られていく。動くことで、人は少しずつ賢くなるのだ。動いていく足跡に、自我が固まっていくからである。

 欠落感が直ちに補填されてしまうなら、動くこともないであろう。動く必要がないからだ。動かなくなることに慣れてしまうと、動くことに必要以上のエネルギーコストが払われる。だから、次第に動くことが億劫になるのである。



* 起伏の乏しい人生では、態度だけが人の記憶に張り付いている。起伏の激しい人生では、死に顔だけが語り継がれていく。態度を選ぶか、死に顔を選ぶか、それもまた趣味の範疇に含まれる。



* 夢を本当に実現してしまった人間が怖いのは、人格の達成速度が、夢の達成速度に追いつけなかったからである。夢を見る能力と、夢を実現する能力は違うのだ。夢を実現する能力は、実現した夢を維持する能力とも違うだろう。

 夢を見る能力すら育っていない者に、夢が現実となって襲ってきたとき、その現実を操作できない苛酷さこそビギナーズ・アンラックである。もう夢は見るまいと括って退却できるビギナーは、夢喰い人の基本文法だけは履修できている。退却できないビギナーだけが、自分を喰って生きていく。



* 「分って、聞いて、突き放さない」―― これを「観音三原理」と、私は呼ぶ。

 この国では、この原理の中に優しさのエキスを掬いとっている。優しさとは、この国では肯定的に反応していく態度のことらしい。だから父母に向かって、師や友に向かって、「察して欲しい」という表情で勝負するのか。

 この蜜は覚悟して舐めた方が無難である。あまり舐めすぎると足腰が脆くなり、退路を引き返す突破力が絶え絶えになってしまうのだ。人生では、癒しの沼から攀(よ)じ登っていくのが一番難儀なのである。



* 自我を裸にするから、家族の中性化が不可避となるのだ。家族には、「男」とか、「女」などという、世間で使う性別呼称は不要なのだ。ただ、「役割呼称」だけが求められる。それ以外の何もいらない。自我を裸にして、愛情と援助を円滑に出し入れするには、恐らく、その方が遥かに好都合なのだ。ゲームにもアクセスしやすのである。



* 家族の喧嘩にも不文律がある。そこでの様々なルールを貫流する禁止条項というのがあるはずだ。それを私なりに要約すると、「無視」、「拒否」、「攻撃」ということになる。

 最も過激な家庭内暴力とか、「緊張」→「暴力」→「ハネムーン」という回路を循環すると言われる、配偶者間等のDVというものは、当然の如く、関係が作り出した過緊張の必然的な暴発点としての「身体攻撃」の最悪のパターンとなる。「身体攻撃」はその主体の自我破壊を含むが故に、暴力の日常化は家庭の機能を不全化するのは必至であるだろう。

 「拒否」というパターンも同様だが、「無視」というパターンになると、関係のラインの衰弱を意識が捉えてしまうから、家族という物語の再生は困難を極めるだろう。家族はゲームにすら向かえなくなってしまうからである。



* 看護の継続力を愛情以外の要素で補填する者は、そこに何を持ち出してくるか。何もないのである。愛情の代替になるパワーなど、どこにも存在しないのだ。強いてあげれば、「この子は親の面倒を看なければならない」という類の道徳律がある。

 しかしこれが意味を持つのは、愛情の若干の不足をそれによって補完し得る限りにおいてであって、その補完の有効限界を逸脱するほどの愛情欠損がそこに見られれば、道徳律の自立性など呆気なく壊されてしまうのである。

 

* 「母は善なり」という、浮ついた俗言に深入りすべからず。

 命をかけて愛児を守った母の話も、被爆直後の死屍累々の惨状の中で、我が子を踏みつけて走り去った母の話も、人の世界では、当然の如く真実であって、それらを特殊化する感覚の貧しさに一縷(いちる)の救いが窺えようとも、自らがその状況に置かれれば、自然なる振舞いを刻む身体表現の答えのイメージに近づいてしまうのだ。

 我が子の危難に愛情に目覚めた母がいるかも知れないし、愛児を残して去った母が深々と悔いる可能性も高い。咄嗟の判断による行為のみを切り取って、それを物語化する着想の中から胚胎された俗説には近寄らない方がいいのだ。「母は善なり」ではなくて、「母もまた人なり」の方が正解なのである。
                     


* 人は、自分の中にあって、自分がどこかで受容できないか、或いは、偽装武装する観念の継続にしばしば疲弊する心理状況下において、それとは無縁な個性と出会うとき、そこに異質なる個性のクロスの心地良い刺激情報を感受するケースが、少なからず散見されるであろうということだ。相互に対極性を放つ人格が、身体を介在するバトルを絶対的に回避する担保を手に入れて、心の不思議な引力によって、相互的に補完し得る作用が現出してしまうのである。

 そのとき、相手の異質なる人格様態を自分の側に少し引き寄せて、そこに、一つの固定化されたと信じる自我が拡大的に視界を網羅してしまうのだ。そこに、人間の変わりやすさの一つのモチーフが検証されるのである。



* どうしても何かを吐き出さざるを得ない内的状況があって、それを吐き出したら楽になるかも知れないという、追い詰められた者がしばしば現出する、縋り付きたくなるような思いがあった。そしてそれを今、吐き出さなければ危ないと感じた臨界点の辺りで、遂にそれを吐き出した。

 そういうことを可能にした環境が彼を救い、その環境に半ば本能行動的に身を託した純なる魂がそこにあった。その魂は、そうしなければ自らが呆気なく解体される恐怖の前で立ち竦み、その隙間に未だ力を持っていた少年の自我が、明らかに〈生〉の方向に振れたのである。従って、この魂の救済は、その魂を見守る環境にサポートされた自己救済だったとも言えるのである。



* 否定的自己像を肯定的自己像がほんの少し上回ることで、人は内側の秩序を何とか確保する。このささやかな安定を、理不尽な暴力の侵入が根底から破壊する。暴力が相手の否定的自己像を執拗にヒットしていくことで、相手が死守しようとした肯定的自己像をも砕いてしまうのだ。

 こうしたモデルをなぞった暴力こそ究極の残酷である。相手の自我のしなやかで、それ以外にない復元を全く許さないからである。



* 否定的自己像をヒットされた者は、二重の意識に囲繞される。傷を負った意識と敗北意識である。前者は相手を憎み返すことで幾分かは払拭される。

 しかし敗北意識だけは、傷つけ返さない限り心が晴れないのだ。相手を跪(もが)かせ、苦しませることによってしか完結できない、圧倒的な怨念の連鎖の恐怖が、ここにある。簡単に傷を負うシャイな人がいつでも相手に報復できるとは限らないから、一方的なダメージだけが自我にプールされて、自らを苛んでいく。これが絶対経験となって、自己を喰って魔境で生きるのだ。



* 彼女とデートすると必ず雨が降るという伝聞によって、一人の雨女が誕生する。デートした男は、その最も印象的な日に雨が降っていて、しかも、それが二回続いたことの鮮明な記憶は雨女のイメージに集合した。実は、それ以外の平凡なデートの日の多くが晴天であった記憶が、その平凡さの故に薄らいで、男の中で、雨天のプロポーズの快楽が自在に動き回ってしまうのだ。

 予知夢を見たけど身内の死が訪れなかった一切の夢は急速に忘れられ、予知夢を見たら本当に身内が死んだ人の偶然の夢だけが巷を跋扈(ばっこ)し、人々の記憶に鮮烈に刻まれる。印象の濃度で情報を選別して生きていく人間の、未だクリアできない超能力の誘(いざな)いの仕掛けは、かくも味気なく、単純だった。




* 他人の喧嘩に簡単に入れないのは、「当事者熱量」と「第三者熱量」に大きな落差があるからだ。

 当事者同士は相手の僅かな態度の挑発に激しく反応し、相乗効果によって益々納まらないし、周囲はバックドラフトを回避しようとするので、そこに熱量落差が広がるばかりとなる。しかし当事者の多くは、プライドが充たされるような第三者的調停を望んでいるから、熱量落差の中でクールな棒が挟まれることで、一気にリバウンドに向かっていく。言いたいことを全部言って、且つ、プライドラインの補正が有効なら、あとはただ引け際のタイミングだけである。

 「第三者熱量」の存在こそが、当事者を救うのだ。熱量落差の状況こそが、多くの争いに様々な選択肢を導入するのである。集団には、常に一定の熱量落差が必要なのである。クールな棒もまた捨ててはならない。



* かくも氾濫した情報社会の中で、不快情報をもたらす者との出会いも又避けがたい。この社会で自分が出会う凡ての人に好かれ、評価されようと思うこと自体、充分に傲慢である。

 この社会で疲れないためには、第一にその幻想を捨てること。第二に自分を嫌う者、或いは自分が嫌う者との関係を、倫理的な理由で好転させようなどとは決して考えないこと。

 相手もそれを望んでいるとは限らないので、自分の報われない努力のリバウンドを処理する能力が欠けたら、関係はいよいよ悪化すると見た方がいい。相手との適切なスタンスを確保して、不快情報の侵入を極力防いだ方が有効な知恵になるのだ。

 社交を趣味とする者の世界に、それに馴染めない者が簡単に踏み込んではいけないのである。何より大切なのは、自分の納得する規範を作って、自らの適正サイズで生きていくことだ。



* それでも人は生きていく。とりあえず、今死んだら困るから生きていく。死ぬに足るだけの理由がないから生きていく。時代の、眼に見えない移ろいの中で生きていく。

 始まりがあって、終りがある。そこに取るに足らないことしか起こらなくても、円環的な日常性を巡って、巡って、巡り抜いて、それでもそこにしか辿り着かない時間の海を漂流するようにして、一時(いっとき)の心地良さと出会うために生きていく。

 人生は所詮、なるようにしかならないのだ。運命の悪戯もあれば、際どい分岐点もある。どれほど努めても、何ものにも結晶化できないこともある。何もしなくても、向こうから天使が誘(いざな)ってくれるときもある。一切は幻想かも知れないし、何事も不定形な観念の饒舌なる遊戯かもしれないのだ。

 それが偶然だったか、それとも必然だったか、実は誰も定められないし、そこに残された固有の思いだけが、その軌道の評価を括っていくだけなのである。

 それでも人は生きていく。それだからこそ、人は生きていく。定まっているようで、定まらない人生の悪戯を信じることができるから生きていく。



* どれほど辛くても、これをやっていれば少しは辛さを忘れられるというレベルの辛さなら、軽欝にまで達していないのかも知れない。

 忘れられる辛さと、忘れようがない辛さ。辛さには、この二種類しかない。

 楽しみをもつことで辛さを忘れられる者を、「躁的防衛者」と言う。多くがこの人々だ。辛さを忘れるためだけの娯楽を決して揶揄してはならない。それを揶揄するほど私たちは強かったのか。文化の存在価値の一つがそこにあることを、私たちは安直に否定すべきでない。

 私たちは実際の所、まだ死にたくないから生きているだけなのかも知れない。その事実の重量感は、意外に軽視できないのだ。だからこそ、辛さの忘却が不可避なのだ。雄々しく立ち上げることだけが人生の輝きではない。辛さと娯楽を内側で安定的に共存させる能力の高さこそ、幸福をミスリードしない者の小さな輝きなのだ。



* どのような娯楽によっても癒されない辛さを抱える者に、救いはあるか。救いがあったと言える者は、その救いこそ癒し得る娯楽だったのだ。

 宗教が自分を救ったと言い放つ者は、その宗教こそ格好の娯楽だった。愛もまた娯楽だった。暴力もしばしば娯楽になる。残酷の快楽という、とっておきの娯楽もある。

 人間はどのようにでも化け得るし、どのような救済でも発明し得る。条件さえ嵌ればどのようなシフトをも可能にする人間のこの無秩序こそ、人間の脆さの証である。

 条件によって動かされるその人間だけが、条件を作り出す。そこに人間の一つの救いがある。人間の壊れやすさが、人間に救いの道をもたらした。癒されがたい辛さをもつ者に、それを束の間、中和させる多様なコードが開かれている。人間の脆さゆえに、常に過剰に開かれている。



* 人が人を赦そうとするとき、それは人を赦そうという過程を開くということである。人を赦そうという過程を開くということは、人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いが、人を赦そうとする人の内側に抱え込まれているということである。

 人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いとは、人を赦そうという思いを抱え込まねばならないほどの赦し難さと、否応なく共存してしまっているということである。私たちは、人を赦そうという思いを抱え込んでしまったとき、同時に赦し難さをも抱え込んでしまっているのである。これがとても由々しきことなのだ。

 相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱え込ませることのない程度の行為である限り、私は相手の行為を最初から受容しているか、または無関心であるかのいずれかである。相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱かせるような行為であれば、私は相手の行為を否定する過程をそれ以前に開いてしまっているのである。この赦し難い思いを、自我が無化していく過程こそ赦すという行為の全てである。

 赦しとは、自我が空間を処理することではない。自我が開いた内側の重い時間を自らが引き受け、了解できるラインまで引っ張っていく苦渋な行程の別名である。
 


* 笑って赦せる人は、最初から赦さねばならない時間を抱え込んでいないのである。赦す主体にも、赦される客体にも、赦しのための苦渋な行程の媒介がそこにないから、愛とか、優しさとかいう甘美な言葉が醸し出すイメージに、何となく癒された思いを掬(すく)い取られてしまっている。あまりにビジュアルな赦しのゲームが、日常を遊弋(ゆうよく)することになるのだ。ゲーム感覚で日常に流される赦しの非自立性と没個性が巷に溢れ、関係に漂う空気から緊張を奪い、リアリズムを限りなく無化しつつあるのだろうか。

 人を赦すとき、私たちの内側には、既に、相手に対する赦し難さをも抱え込んでしまっている。この赦し難さを内側で中和していく行程こそが、赦しの行程だった。



* 性格を変えようなどとは安直に考えないことだ。変えようと思っても、性格はなかなか変わらない。変えようと思う心が変わっていくだけだ。変えようと思う心があるならば、行動パターンの変化の認知が、いつか自己像変化に逢着するとき、既にそこで何かが変わっている。変化のイメージが何かを動かすのだ。自分にはこんなこともできるのかという自己像の増幅が、内側で変化の胎動を嗅ぎ取ることもある。この実感の継続が自己像変化を加速する。

 性格が変わるとは、こういうことである。自己像変化に心地良さをもたらしたとき、人々は「内なる革命」を高々と歌い上げる。それは、ほんの少しの行動シフトによってさえ叶ってしまうのである。不断なる自己点検が切に要請される所以である。



* 「ここだけの話」と迫っていって展開される話の多くは、周知の事実である。周知の事実と化していることを承知で語る者の奥に、切ないまでの共有願望と、話を切り出す「間」において上り詰めた優越感と、話を仕切る快感が澱んでいて、既にその状況が発話者の人間像を炙り出している。

 そこまでして自分に注目を集めないと気が済まない小さな尖りは、話を聞くために小さな輪を囲って見せる細(ささや)かな友情こそが支え切る。 話者の共有願望は、人々の共有幻想の内に予定通りに溶けていき、次々にリレーされていくのだ。

 「ここだけの話」の威力は圧倒的なのである。それは内実よりも、形式だけが醸す圧倒性である。実に安上がりの神経増強剤である。



* 苦悩への対応には二種類ある。

 苦悩の現出に同じ様にダラダラ悩み、ただ状況のシフトに待機するだけの対応と、苦悩のルーツを把握し、それを中和し、相対化するために、自我を束の間いじめる対応の二種類である。前者を「防衛的苦悩」と呼び、後者を「攻撃的苦悩」と呼ぶ。

 時として人は、「防衛的苦悩」を不可避とするが、苦悩を転機にするなら「攻撃的苦悩者」であらねばならぬ。どのような苦悩の襲来にも壊されない自我を作るための免疫を形成し、これが後の「大苦悩」を突破する貯金となることを信じ込ませ、「今、このとき」の辛さを生きることだ。

 明日を捨て、「今、このとき」を生き切って、生き切った後の宵の晩酌に流れ込むこと。生き切った自己像の確保の中で、束の間、酩酊すればいい。攻撃的なイメージの繋がりが、貴方をぎりぎりに守り切るのだ。


 
* そこに、過剰に踏み込むことによって失うものよりも、踏み込まないことによって守られるものの方に価値を見出すのは、魔境に誘(いざな)うような様々な経験から、常に回避する臆病さを検証するものとは決して言えないのだ。

 私たちはそんな「人生知」の重要さについて、あまりに無頓着であり過ぎるのではないか。 



* ある目的を実現するプロセスの中で、人はしばしばゴールラインの遥か手前に佇んで、陶然としたひと時を愉悦することがある。文化という名の余剰の時間と遊んで以来、私たちはそのような佇みの価値を自立化させて、そこからたっぷり蜜を舐め、時にはそこで自らの時間のうちに上手に自己完結させることで、果てることさえ厭わない。その快楽を私は「プロセスの快楽」と呼んで、所謂、ゴールの快楽(「達成の快楽」)と分けている。

 それは「想像の快楽」を伴走させることで、達成を目指した遥かな行程を、意識が自らを加工して独りで支え切ってしまうのだ。

 それは甘美な夢遊びのゲームともなって、時間の曲線的な航跡に絡みつく様々な凹凸を潤し、フラットな人生の記憶に彩りを添えるのである。ただそれだけのことだが、気恥ずかしくも、添えられた彩りが物語のサイズを異化しない限り、ゲームは私たちを、私たちがそれ以外に存在し得ない場所に、迂回のコストを幾分乗せながらも、しかし確実に軟着陸させてくれるのだ。



* 出会うべき必然性のない人間と出会ったら、すぐ忘れることだ。出会うべき必然性のない幸運と出会ったら、必ず梯子(はしご)を確保しておくことだ。出会うべき必然性のない不幸と出会ったら、それを直ちに相対化してしまうことだ。これが、身の丈で生きていく極意である。

 偶然性に過剰な思い入れを供給し過ぎると、軌跡の重量感が削がれることになる。人生の多くは意志が拓いた必然の濃度が深いものの集合だから、偶然の昇天に舞い、その一撃で灼かれる時間の新鮮さに捕捉される必要もない。

 人生の総体は、印象の強度で測られるものではないはずだ。多くの印象的なだけの偶然は、ただゲームとしてだけつき合えばいいのである。



* 一級の預言者は、未来に踏み込み過ぎることをしない。踏み込んでも何も分らないからだ。だから彼らは語らない。しかし彼らは、全く何も語っていない者のようには決して語らない。その素朴で、一見フラットなフレーズの奥に、一定の経験則に裏付けられた、深い人生の識見が垣間見える者のように、彼らは語る。彼らは恰も、言葉を更に厳選するための間(ま)を尊ぶ者の如く、ゆっくりと、誰でも分るフレーズをそこに放つのだ。



* 「私の心は見透かされている」という心理の負性が、占い師に対する一種の畏怖感を生み出すことで、早くも心理的な上下関係が、そこに形成されてしまうのだ。「世俗の預言者」の前で自我を裸にした者は、自ら抱え切れぬ負荷を背負って欲しいという願望の強度によって、かの者への関係の依存性が定まるのである。

 そんな不安耐性の低い人々は、「世俗の預言者」から一体何を手に入れるか。

 確信か。そうではない。人々が「世俗の預言者」から受給される最大のものは「安心」である。人々は辻の一隅で、「安心」をこそ手に入れたいのである。この消費は、確信もどきで「安心」の売買を成立させ得る癒しのビジネス以外ではないのだ。

 癒しのビジネスの成功の秘訣は、何も語らないところにあった。何も加えないところにあった。辻占い師は、「世俗の預言者」という名のカウンセラーであったのだ。だから彼らは強いのである。だから人々は切実
だったのである。



* 病気を治すことを、一つの賭け事の如く考えてもいいのだ。

 この人に任せるという気持ちが、既にギャンブルなのである。「病識からの解放」を託せる人との出会いから、全ての医療は出発するのである。今度は患者主体にとって苛酷なようだが、託した医師のミスから失命しても、それを受容し得る覚悟で内側を固めていくことで、その気概が、「病識からの自己解放」を果たすことになる。私自身の経験を踏まえても、それが厄介なテーマであることを認めてもなお、「病識からの自己解放」こそが究極の医療であるとも言えるのだ。

 自己解放力の達成度を高めていければ、私たちはもう何も望む必要がない。絶えず自分の抵抗虚弱点(主に、自分の身体の最も弱い点)を見据えていって、それを少し合理的に補填していければ、私たちはそれ以上何も欲する必要もない。私の内側に発し、私の内側で認知し、その内側を解放していく。その気概を捨てなければいいのである。



* 最新の印象が関係を揺するからこそ、人は親しき仲にも、その関係に見合った一定の規範を設定せざるを得ないということだ。そこでの眼に見えない規範が、適正スタンスを獲得する。そのスタンスが自我に記憶されて、感情の出し入れを練り上げていくのである。この練り上げの中で、情報が昇華されて知恵となる。知恵を積み上げた関係は崩れにくいが、知恵は決して万能ではない。知恵の届かぬ前線で生じた破綻の広がりは、あまりに性急なのである。

 だからこそ人は、最新の印象シフトに気を配る。過去に険悪だった関係も、最新の印象シフトで、あっという間に修復を果たし得る。勿論、そこにも臨界ラインの設定はある。しかしこのことは、関係という不定形なるゲームに、敗者復活戦の余地を残していることを示すものだ。関係の復元力もまた、「新近効果」(最新の印象が、対象の評価をしばしば決定付けてしまうこと)によって検証されるのである。



* この世で最も恐るべきものは、殆ど人間の問題に内在する。

 例えば、人間の力でどうすることもできないものに自ら努力し、解決しなければならないという状況に置かれること。報われない努力を重ねてもなお人が生きるとき、果たして人は、それなりに目的的に累加した時間の中で何を見て、何を捨て、何を捨てることなしに生きていけるだろう。

 その中で人は、その人がその人であったところのものを、その人のあるところのものとして、それが例え、見るに堪えない鈍走であろうとも、納得のいく自己完結を果たせるかどうか。少なくとも私にとって、それらは全て未知の領域だった。



* 人の心を蝕む、止むことのない疼痛というものを、貴方はどこまで理解できようか。人の痛みを知るなどというおぞましいラインで、存分なほどに世俗を振り撒いてくれるな。その心地良き舌から、愛や救いを転がしてくれるな。

 苦痛が引き摺り出してきた卑屈さに貴方は降りられるのか。貴方が降りようとするその辺りまで、とうてい私は飛翔できない。貴方が拠って立つその眺めのいい部屋の辺りまで、私はとうてい飛翔できない。私が堕ちていったこの落差にも、貴方はとうてい気づくことはない。この深く、およそ何ものにも埋め難い空気の分裂が、堕ちゆく者の内側を削り取り、空洞化し、初めからそこに何もなかったもののように見えなくしていくだろう。

 絶対的孤独感 ―― それこそ、見えなくされた者が最終的に辿りつく心の風景だった。



* 幻想が壊れるとき、人は大抵、極限的な状況か、若しくはそれに近い状況に置かれている。どこまでも届くと思っていた愛という名の稜線がぼんやりしてきて、人は対象を見る前に、まず自分の足元を見てしまう。その足元が、抑制のきかない程度に揺らいでいるのが見えてしまうのだ。揺らいでいる足元から、人はもうどのような錨も投げ込めない。そこに橋を架けたいと思う力のない願いは、いつでも重いリアリティの前に蹴散らされていくのである。そのとき人は、自分を傷つけないギリギリの優しさの中に物語を加工する。

 「あれはあれで仕方がなかったのだ」

 何ものをも傷つけなかったと信じる心理学的技巧によって、人は次の旅立ちに待機することができるのだ。幻想の破綻は次の幻想によって埋まってしまうのである。幻想を必要とせざるを得ない唯一の生物 ―― それが人間なのだ。



* 人生には、予約されない恐怖というものが満ち満ちている。

 人は日常的にはそれを意識しない。意識しないから、日常性という名の枠内秩序をしばしば留守にする。やがて留守にしたものへの帰還がお座成りになって、帰還していくものへのイメージが内側に定着できなくなっていく。帰還していくものを見えにくくすることで、人は少しずつそこから離れていって、そして過剰になる。拠って立つ何か厳しいものに縛られていないと、人は大抵過剰になると言っていい。

 過剰になるほどに、人は危うさを連れてくる。危うさもまた劇薬となって、人はますます過剰になるのだ。過剰なるものは危うい綱渡りとなる。この危うい綱渡りを、人はゲームの範疇でどこまでカバーすることができるかどうか、そこに得失点差が生じるようだ。



* 強迫的な反省をどれほど束ねても人は簡単に変われないという確信を、私は経験的に持っている。まして気の利いた言葉と幾つか出会っただけで、「この言葉が私を変えた」などというロマンチシズムに酩酊できる御仁は幸福である。

 私から言わせれば、それは一握りの成功者が自らの物語を美化するために仮構した自己幻想に過ぎぬ。弱き者が心地良い言葉のメロディを耳にしたくらいで、確かな何者かに化けたという寓話には反吐が出る。自分に奇跡が起こったと信じる者は、他に選択肢がない状況の中で、その御仁が最大限の努力を発揮すればここまで達成できるという能力を、単に示すことができたに過ぎないのである。



* 「人には色んなことがあるように、私にもあった」という無難なラインで物語を収斂するためには、人に話せる限りでの善行と悪行の記憶を、現実原則に拠って立つ自我が把握し得る、相応の「損益分岐点」への配慮を怠ることなく適当に攪拌(かくはん)し、且つ、「認知の不協和」に雪崩(なだ)れ込まない心理的技巧のサポートによって、「私の物語」を繰り返し確認していけばいいのである。「私の物語」とは、それぞれの自我が自らについて仮構しているイメージの城砦であるからだ。



* およそ同質の疼痛を共有する経験などあり得ない。自分が占有する辛さの経験だけが人を孤独にし、その孤独が他者の孤独に、その辛さを埋めるに足ると切望する分だけのアーチを架ける。それが自死に向かう他者の孤独の、陰影の弱々しい部分にまで這い入っていける決定的なモチーフなのか。



* 壊れかけたものの中で、人はどこまで旅を重ねていくのか。壊れゆくものの恐怖が、壊れゆくものを加速的に破壊し、自死へのエネルギーをほんの少し残したところで、人はようやく流離(さすら)うことを捨てるのか。

 実の所、壊れゆくものの恐怖には、ほんの少し残したはずの自死への物理学的エネルギーが、いつか剥落するのではないかという、もっと深い恐怖が横臥(おうが)している。疾病による凄惨な死を回避したいために、人は自死へのエネルギーを蓄えておくのだ。安楽死という保険から除かれた者たちは、既に「疾病利得」などと呼ばれる不快な展開の見えない時間とは無縁な辺りで、予約された臨終に向かうギリギリのエネルギーを確保する技術を、まさに崩れゆく日々の只中で手に入れる以外にないのである。



* 奇麗ごとの言辞を連射すればするほど自分が愚かに思える者は、そこに意識が働いている分だけまだ救いがあると言えるだろう。しかしまだ逃げ道がある。自分の愚かさに気づいても、その愚かさの表層の部分だけを槍玉にあげ、自分を深く傷つけない程度に悩むこと。

 もう一つは、自分の愚かさをセールスすることである。愚かさをも顕示することで、自分の愚かさを他者の物分かりの悪さによって中和してもらうことである。だから過剰な謙虚さは、この国ではしばしば有効なセールスになるのである。



* 断崖の険阻な岩陰に懸かった壊れそうな巣に、母のいない一羽の瀕死の雛が、餌の代わりにとうとう固くなった自分の糞を啄ばんで、頗(すこぶ)る元気になったと思い込んだ。

 まもなく啄ばむ糞が消えても、雛は空気を食べて元気を継続できると信じ込み、殆ど宗教の世界で生き抜けた。信仰を糧にした雛は、視界が狭い分だけ強かった。巣の中の狭隘な温もりが、雛の信仰を強化したのである。本物の餌のない雛の寿命がいつ果てるか、雛だけがそれを知らなかったのか。

 雛は自らの危機を、もう乗り越えたと信じたかったのだ。信じることに縋りたかったのだ。だからしばらく、空気だけで生きていけたのである。



* 自らの弱さをカバーすることに過剰なエネルギーを蕩尽することは、決して青春の特権ではない。人は大抵、そのような醜悪さを晒さずに生きていけない。しかしその自己認知を、汚れの見えない浅瀬で済ますのは避けた方がいい。

 弱い者が集合し、慰め合って魔法をかけ合っても、恐らくもっと弱くなるだけだろう。弱き者の旅の果てに何も待っていなくても、何も待っていなかったという辛さの中に、この鈍い歩みを受け止めて、受け止めた場所からなおフラフラした鈍い歩みを続けていくしかなかった。弱き者のその足掻きから、ほんの少し勇気ある気分に届くには、足掻きを継続する執着心と言えるような何かが必要だったのだ。



* 昨日まで壊れかけていたものが、今まさに壊れゆくものをどこまで救えるのだろうか。

 壊れかけていた恐怖から解放されたという幻想が踊っている時間の只中に、その幻想を揺さぶる現実が表層の自我に刺激を与えてしまうと、壊れかかっていたものが今内包する、吐き下せない黒々とした澱(おり)が静かにしていられなくなる。つい先日まで揺らぐ魂と似たものが、眼の前に立ち現れた不快こそ、自分の弱さを繰り返し暴かれる遣り切れなさを増幅する。その遣り切れなさが一つの言動に繋がると、今壊れかけているものは、その僅かなエネルギーから搾り出そうとしているものを、澱みの奥に戻してしまうだろう。病人が病人を救うのは困難であるか、またはあまりに冒険すぎるのだ。



* 不意に沸き起こる空しさの感情のルーツを合理的に説明したとしても、そうした説明そのものに空しさを感じたら、人は最後にどこで安寧を手に入れるのだろうか。観念が感情を支配し切れない隙間では様々な思いが蠢(うごめ)いていて、それらを抑え切るには、宗教的な断定が最も簡便な方法論である。その道を険しく歩まないためには、余計なものを忘れていくことだ。忘却のスキルこそが、人生を少しでも快適にする知恵となる。こうして人は、過去を忘れるのが上手になっていくのである。



* 人は常に過剰なるものに誘(いざな)われて止まない生き物である。生きるということは、過剰なるものへの誘(いざな)いと如何に折り合いを付けるかという高度なゲームでもある。

 常に人格主体の最適戦略を模索し、合理的行動を選択する「ゲームの理論」の決定力は限定的であるだろう。人生のゲームに始まりはあるが、終わりが見えない。それが一番怖いのだ。

 人は常に死んだら困ることの根拠を、自らの内側に見つけ出す努力を惜しまないに違いない。それがあるから今の自分がある、という何かをより堅固に育て上げてしまうのである。それが、程々な場所に落ち着けないという危うさを内包する。これが怖いのだ。

 それが例え、正の過剰と見えるものでも、流れの行き着く果てには、均衡を崩して手に入れたものからの報復が待っているかも知れないからである。



* 絶対的弱者は絶対的に孤独である。

 これは自らが他者に全面依存しているという確信的辛さがますます弱者を孤独に追いやり、弱者の自覚を絶対化する。弱者はもうこの蜘蛛の糸から脱出不能になる。弱者はかなりの確率で抑鬱化するだろう。壊れゆく明日のリアリティに引き摺られながら、千切れかかっても、なおそこに留まっている自我の生命力に、ひたすらぶら下がるのみである。

 何ものにも埋められない荒涼とした風景が何処までも伸びていき、震えを止められない自我が定点を失って、その体力の臨界点を越えたとき、それが支えた身体の中枢から、加速的な自壊現象が開かれてしまうだろう。絶対的弱者は壊れゆく明日の暴力の只中に、千切れかかった自我を必死にぶら下げて、あと一日だけ時間を延す知恵を作り出すことができるかどうか。そこに賭ける他はない。絶対的弱者にとって、人生とは賭博のようなものである。



* それは崩れゆく者の最後の供給源だった。草生(くさむ)す廃道に蹲(うずくま)る意志が、褐色の空に縋りつく。天の糸にぶら下がるのだ。

 自我の異臭が何もかも退けていた。先が見えなかった。軌跡も消えていた。そんなことはもうどうでも良かった。天の糸にぶら下がる以外になかったのである。最後に供給してくるものを信じたかったのだ。冥闇(めいあん)と弧絶の闇を抜けようなどとは思わなかった。

 一切は、この日を抜けるだけだった。一切は、この日に有りっ丈の養分を満たすことだった。この日だけが全てだったのである。この覚悟こそ、脆弱なる者の最後の到達点だった。



* 「絶望とは死に至る病だが、絶望の苦悩は死ぬことができないというまさにその点に存するのである」―― これは、キルケゴールの有名な「死に至る病」の中の一節。

 自ら死ぬことすらできないという絶望状況の中で、死の到来に待機するという過酷な精神世界の本質は、自我機能の運転不可能性ということである。自我は、常により生命の安全性を確保するために機能するものだが、このとき自我は、生命の保障を確保し得ない状況に立ち会って、運転不可能性に搦(から)め捕られてしまうのである。この状況の中で自我の救済トリックに挫折した人間は、「死という最後の希望さえも遂げられないほど希望がすべて失われて」(前掲書)、ひたすら死の到来に待機するばかりなのだ。



* 人間はもう生きることに耐えられないと、自我が記憶し得る臨界点でこそ自殺するのであって、このときこそ、ある意味で精神的苦痛がピークに達したときあると言っていい。なぜなら、このとき自我が、苦痛を最大限に記憶しまうからである。

 しかし人間は、苦痛の持続になかなか耐えられない。自我は機能不全に陥り、自殺の衝動に駆られる。そして機能不全に陥ってもなお、生き残された自我エネルギーを駆って、人は自殺に走るのである。自我は、なお続く苦痛の持続に耐えられなくなってしまったのだ。

 自殺への臨界点とは、自我エネルギーの臨界点なのである。生命維持という根本的機能が、苦痛の持続しかもたらさない生命維持の虚しさの前に自壊する心理的構図が、ここにある。自殺はそれを防ぐに足るほどの自我エネルギーをストックできない自我が、僅かなエネルギーを駆って行為化された、人間にとって唯一の意志的な自我解体の手段なのである。



* 「バルド・ソドル」(「チベット死者の書」)という、現代にあって奇跡的な物語がある。

 曰く、人は死に至って最高の精神的到達点を極める。それから4年間の間、やがてこの光が失われるに及び、恐怖が襲ってくる。この恐怖の中で再生を賭けた旅が遂行され、遂に子宮の一つに逃げ込むことで、一つの魂の旅が終焉するが、これはまた新しい再生の旅の始まりとなる。よくある輪廻転生の物語である。

 私はこの書を何度読んでも、心に伝わって来るものはない。私の近代的感性は、こういう書物を受け付けなくなっていしまっているのだ。

 確かに「死んだら何もない」ことを受容することは、自我によって生きている人間にはあまりに辛すぎる。これは、死を告知された者がそれを受容するまでにかなりの心理的葛藤を経由するという、例の有名なキューブラー・ロスの報告によっても窺うことができる。彼女によると、死を意識するプロセスは、「否認」→「怒り」→「取引」(死神との取引によって死を受容する心理体制を準備)→「落胆」→「受容」という風に仮定されていて、最後の段階でようやく心理的安定感に達成するというものだ。

 このような心理的変遷を思うにつけ、人間が自らの自我を最終的に解体されてしまうことへの恐怖に対峙してもなお、まさにその自我によって、「生」→「死」という絶対矛盾の物語の組み替えに固執する姿を垣間見せられて、つくづく自我なしに生きられない人間の悲哀に慄然とする外はない。

 それでも私は、敢えて書く。

 「魂(自我)が永遠に続くだって?それだけは御免蒙りたいね。自我は疲れるだけだ。あの世に行ってまでも苦労したくないからね」と。

 既に近代人の感覚を身につけてしまった男の、それ以外にない「死の普遍性」という畏怖すべき事態への括りであるということだ。



* 「甘美な死のロマン」というような情緒的な発想で、自殺を語る人々に限って、恐らく、自殺から最も縁遠い御仁だと考えた方がいい。なぜならこの人たちは、実人生をロマンによって安直に語ってしまう人々であるからだ。

 然るに、若者の自殺は自我の組み替えに挫折したときに出来するというのが、正しい分析である。自我に過剰にストックされた自我自身の耐えられなさがピークに達したときこそ、人々は自殺する。そこには、「甘美な死のロマン」など入り込む余地がないのだ。

 「甘美な死のロマン」の正体とは、死の中に「自我救済物語」、即ち死後の生命とか、魂の永遠とかいう、人間が勝手に作り出した物語によって、補強されてしまうような死であって、これも自殺のカテゴリーに入れられてしまっているから、自殺概念は文学の世界に搦め捕られてしまうのである。