投稿

12月 21, 2008の投稿を表示しています
イメージ
 【 人生論的短言集 】(画像はキルケゴール) * ほんの僅かな情報で「善悪」を言い当てる。そこに羞恥を覚える自我の反応の度合いが「知性」の濃度になる。 * 「やってはならないこと」と「やって欲しくないこと」を峻別できない者に、相応の権力を与えてしまうこと。そこから人間の悲劇の多くが生まれる。 * 突入するにも覚悟がいるが、突入しない人生の覚悟というのもある。覚悟なき者は、何をやってもやらなくても、既に決定的なところで負けている。 * その精神が必要であると括った者が、それを必要とするに足る時間の分だけ、自らを鼓舞し続けるために、「逃避拒絶」のバリアを自分の内側に設定する。それを私は、「覚悟」と呼ぶ。  できれば、その内側に「胆力」をも随伴させる必要があるだろう。「恐怖支配力」こそ、「胆力」という概念の本質であるからだ。 * 「肯定的なる批判精神の柔和なる表現」 ―― 私はそれを「ユーモア」と呼んでいる。  * 自分のことを少しでも知る者から見透かされることの恐怖感 ―― それが虚栄心の本質である。 * 自らを知るということ ―― それは、自己の存在を理解する他者の心情をも把握するということである。自己の能力や感情傾向を把握した上で、その自己を認識する他者のその認識の許容範囲を正確に把握すること。それが正確に捕捉されれば、人は自らが冒す誤りの多くの部分を修復し得るであろう。 * 私たちは程ほどに愚かであるか、殆んど丸ごと愚かであるか、そして稀に、その愚かさが僅かなために目立たない程度に愚かであるか、大抵、この三つのうちのいずれかに誰もが収まってしまうのではないか。 * 「偉人」、「聖人」伝説の厄介なところは、目立たない程度の愚かさを持つ人間に対して、「完全無欠の物語」を被せてしまうという、まさにその愚かさに無自覚すぎる点である。 * 役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。 * 人間には、役割によって全てが決定されてしまうに足る完全な能力性など全く持ち合わせていない。人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまう