投稿

2009の投稿を表示しています
イメージ
 【 状況論的短言集 】(画像はスピノザ) * 虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ意志的、継続的な対自我暴力である。  最悪の虐めは、相手の自我の「否定的自己像」に襲いかかり、物語の修復の条件を砕いてしまうことである。その心理的な甚振(いたぶ)りは、対象自我の時間の殺害をもって止めとする。時間の殺害の中に、虐めの犯罪性があると言っていい。  身体を少々壊されても、時間を守れると確信する者だけが闘争を始動する。確信できなくても、時間を守りたかったら逃げないことだ。覚悟に向かうイメージだけが貴方を救うのだ。逃げないことが闘うことだ。決定的状況での決定的なイメージラインが、生涯、貴方を救うのだ。 * 単に暴力が怖いのではない。いつ、どんなときに、どんな形で走り出すか分らないから、それは怖いのだ。「法則性なき暴力」が最悪の暴力である。それを断ち切るためには、そこに形成されている権力関係を破壊せねばならない。そのとき、貴方はテロリストになる。相手の理不尽な暴行権を壊すテロリストになる。人はどれ程覚悟してそのようなテロリストになり得るのか。  深くて澱んだ泥濘の中を、果たして貴方は、爆弾ベストをその肉塊に貼り付けたまま、凛として突き抜けられるのか。 * 一度作り出された空気は、その空気を作った人為的な環境が変わらなければ、それが特定的なリスクを再生産する空間では、永劫に続くような何ものかになっている。常に確信的な視線の背景には、それが帰属する集団の価値観を体現する空気があるのだ。その空気が個人の内部に留まらないで「状況」を作り出し、そこで行為として表現されるとき、そこに差別が生まれるのである。   * 差別とは、単に感情や意思のことではない。  人間は必ず内と外を分ける境界を作り、異なった価値観を排除する意思によって生きていく。その意思が過剰になるとき、それを偏見と言う。相手の異なった価値観を理性的に認めれば、人は恐らく、他者と上手に繋がっていくことができるだろう。然るに、過剰な感情や価値観が行為として表現されてしまえば、それらは本質的に差別行為となっていく。  だから、身体化された差別は全て表現的行為なのである。視線もまた、しばしば最も性質(たち)の悪い差別となる。私たちは迂闊(うかつ)にも、視線の